Hooney Got His Pen

映画の感想と勉強日記

コロナ・五輪の議論など

井上達夫の論考からの引用。

五輪、危うい政治の願望思考 井上達夫・東大名誉教授に聞く:朝日新聞デジタル

答責性の本質を探っていくと、僕が長年研究してきた正義の概念と、深いかかわりがある。正義は、自己の権力欲や他者へのバッシングを合理化するイデオロギーではない。逆だ。自分の他者に対する行動が、たとえ相手の視点に立ったとしても正当化できるか、その反転可能性を自己批判的に吟味してみることである。
今回の五輪でいえば、選手たちは、一般人の視点から自分を見つめたとしても、多くの命が失われているこのコロナ禍で五輪に参加したいか、正当性はあるのかと考えることだろう。実際、多くの選手たちが、既にそうした自己批判的な思索を試みていると僕は想像する。  

次に井上の弟子、谷口功一の論考からの引用

憲法学においては、営業の自由を含む「経済的自由」の公権力による規制は、表現の自由などの「精神的自由」の規制よりも緩やかな司法審査に服すこととなっており、このように規制対象によって基準が二重になっていることを指して「二重の基準」と呼んできた。

噛み砕いて言うなら、「営業の自由」は「表現の自由」や「報道の自由」などに比べると、簡単に政府による規制の対象となってしまうのである。このようなかたちで経済的自由を精神的自由に対して劣位に置くのは、「知識人」特有の偏見なのではないかと法哲学者の井上達夫は論じた。

以下、有名な一節だが、井上は「例えば、中卒の学歴しかないために、社長と呼ばれるのを生き甲斐にして事業に精を出す人や、一国一城の主として独立するために個人タクシーをやりたいと、何度も運輸省に申請を繰り返すタクシー運転手にとっての営業の自由は、自己の研究を発表しようとする大学教授にとっての言論・出版の自由に比して、内在的価値において何ら劣るところはない」と言うのである。

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そもそも、なぜ「精神的自由>経済的自由」なのかというと、前者に含まれる言論・出版の自由は、民主的政治回路を健全に作動させるための必須条件であり、それがいったん損なわれると回復困難なダメージが政治社会にもたらされるからなのだと説明される。

しかし、この間の各種報道を見ている限りでは、はたして民主政の守護神(?)として手厚く擁護されている報道が、我々の政治社会を守るために、本当に正しく立ち働いているのかは甚だ疑問とせざるをえない。

みなまでは言いたくないが、昼間の低劣なワイドショーや感染者数だけを垂れ流して不安だけを煽る「報道の自由」を、ただ正直に商売をしたいだけの飲食店を含む中小事業者の「営業の自由」よりも厚く保障することに何の正義があるのだろうか。

私の好きな言葉に「独裁者が恐れるのは、経済生活に疎いインテリなどでは毛頭なく、自分の足でしっかと立つ独立自営業者である」というものがあるが、日々、何の変哲もない営業を続ける自営業者たちこそがデモクラシーの担い手であり、先に示されたような理屈(二重の基準)で劣位に置かれるいわれはないのである。

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ようやく冒頭の話に戻るが、左派系各紙の憲法記念日の紙面に私が落胆したのは、それらが、この物理的(生命・健康)にも経済的(営業規制)にも切迫した危機に直面した状況のなかで、あえて「ジェンダー」という観点から「承認(アイデンティティ)の政治」を前面に押し出し、「再分配の政治」を軽視しているからなのだ。

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アメリカでは現在、このことに関する深刻な反省も少なからず表明されているなか、なぜ同じ過ちを繰り返そうとしているのか、私にはその理由がわからない。「マジでトランプ5秒前!」、それがいまの日本なのではないか。