Hooney Got His Pen

映画の感想と勉強日記

私とは何か

私とは何か 「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

 

「自分探しの旅」は、文字通りに取るとバカげているように感じられるが、じつは、分人 化のメカニズムに対する鋭い直感が働いているのかもしれない。なぜなら、この旅は、分 人主義的に言い換えるなら、新しい環境、新しい旅を通じて、新しい分人を作ることを目 的としているからだ。今の自分の分人のラインナップには何かが欠落している。本当に充 実した分人がない。従って、それらの総体からなる自分の個性に飽き足らない。……

実際、海外生活での分人に意外な生き心地を発見して、現地でコーディネーターなどの 職に就く人もいる。その時に、理想的な構成比率の分人を生きられるようになった(=自分が見つかった)ということは、祝福されるべきことだ。(113ページ)

 

 

人は、なかなか、自分の全部が好きだとは言えない。 しかし、 誰それといる時の自分 (分人)は好きだとは、意外と言えるのではないだろうか? 逆に、別の誰それといる時の 自分は嫌いだとも。そうして、もし、好きな分人が一つでも二つでもあれば、そこを足場に生きていけばいい。

それは、生きた人間でなくてもかまわない。私はボードレールの詩を読んだり、森鷗外 の小説を読んだりしている時の自分は嫌いじゃなかった。人生について、深く考えられた し、美しい言葉に導かれて、自分がより広い世界と繋がっているように感じられた。そこが、自分を肯定するための入口だった。

分人は、他者との相互作用で生じる。ナルシシズムが気持ち悪いのは、他者を一切必要 とせずに、自分に酔っているところである。そうなると、周囲は、まあ、じゃあ、好きに すれば、という気持ちになる。しかし、誰かといる時の分人が好き、という考え方は、必ず一度、他者を経由している。 自分を愛するためには、他者の存在が不可欠だという、その逆説こそが、分人主義の自己肯定の最も重要な点である。(125ページ)

 

その時、大江氏は、こんなふうに答えている。

「ところが、僕のように、これだけ年とってから友人に死なれる場合は、文章を書くこと によって次第次第に、その死んだ友人を自分の中に取り込んでしまうんです。あるいは、 自分がその死んだ友人という他人の中に入り込んでいくんです。 そして、むしろその死者 と自分との関係があいまいなものになってくる。 非常に主観的な関係に、相手を取り込ん でしまう感じ。」(「今後四十年の文学を想像する」 『ディアローグ』)

正直に言うと、私はその時、この「取り込んでしまう」、「入り込んでいく」という表現 が、よくわからなかった。結局それは、生きている人間の勝手な思い込みなんじゃないか と、いつものように考えた。相手が他の人間だったら、そう言っていただろう。しかし、 私は自分が愛読してきた小説の作者が、まさに目の前で語ったその言葉を、しばらく自分 なりに考えてみることにした。(150ページ)

 

 

 

四方田犬彦『先生とわたし』

 四方田犬彦が東大で出会った「先生」である由良君美(きみよし)との話をつづった本。四方田犬彦は、由良のゼミに入って何を学んだのか。学生当時の思い出話にとどまらない。四方田が批評家になってからも交流は続くが、ある出来事によって二人は疎遠になる。でも、いったいどうして。そもそも、ある人にとって「先生」とは何か、あるいは「師匠」とは何か。本は静かな筆致だけど、けっこうびっくりするエピソードが書かれてあって面白かった。

 以下は、どう考えても、蓮實重彦について書かれた部分。大江健三郎の一歳年下というのも一致するし。

 わたしに最初にフランス語の手解きをしてくれたある教師の反応は冷淡なものだった。「不愉快ですね。きみはてっきりM君やS君などといっしょにパリに行くものだと思っていました。韓国にも映画はあるんですか」との言葉はわたしを深く失望させた。もし先生であるならば、弟子が最初の海外渡航を、それも当時の日本で蛇蝎のように嫌われていた国への渡航を決意したときに、何らかの励ましの言葉をかけるのが本筋ではないだろうか。この教師は東大仏文で大江健三郎の1年下の学年だった。だが当時、金芝河の救援運動に関わっていた大江とは対照的に、とにかく身近で韓国なりアジアという言葉が口にされるのを嫌がっている様子がありありと感じられた。ああ、もうこの人は自分の先生でも何でもないなということが、わたしにははっきりとわかった。(四方田犬彦『先生とわたし』新潮社、2007年、40ページ)

 それにしても「韓国にも映画はあるんですか」って、すごいなあ。蓮實らしいといえばらしいけど。いかにも言いそう。四方田はよほど腹が立ったのだろうし、それの意趣返しのつもりで、韓国映画を日本に紹介しまくったのだろうか。この辺は『われらが<他者>なる韓国』に詳しい。あの本も面白かったなあ。

 四方田は、洋書を買いあさり、ありとあらゆる書物を愛好する由良君美の博覧強記さに圧倒されつつも、ゼミに何年も出るうちにようやく話についていけるようになる。やがて四方田自身も韓国留学を経て批評家になり、多くの本を刊行するまでになった。しかし、ある時、自分が書いた本を送ると、驚きの手紙が届く。

 1984年、わたしは現代社会に流通する写真、映画、漫画を記号学の立場から分析してみせた『クリティック』という書物を、冬樹社から刊行した。 わたしにとって最初の、映画批評ではない論文集であり、出版社はそれを「ニューアカデミズム」という気分的な商標のもとに売ろうとしていた。書物を構成する文章の個々のものは、それまで数年間にわたって折りにつけ初出の段階で由良君美に送ったり、直に手渡ししたりしていただがわたしのところに彼が送ってよこしたのはたった一枚の絵葉書で、そこには「すべてデタラメ」とだけ記されてあった。 わたしはひどく当惑した。いったい何がいけないというのか。わたしは、あるいはこの書物に添えられている「ニューアカ」というコピーが、彼を必要以上に腹立たせたのかとも考えてみた。 だがそれでも納得がいかなかった。 わたしの知っている由良君美は、ゼミで学生が見当違いの分析から間違った結論に到達してしまったときでも、あたかも固い結ぼれを丹念に解してゆくように、相手に話しかけ、彼を本来の道へと導いていくだけの、教育者としての忍耐を所有していた人物ではなかっただろうか。 わたしがもしその当時、英語科の教師たちの間で噂されている由良君美の行状についていささかでも耳にしていれば、あるいはもう少し気が軽くなっていただろうか。いや、それはわからない。ともあれわたしはこの葉書のことを誰にも相談できずに、心のなかに仕舞っておくことしかできなかった。(同168ページ)

 ここでいう「その当時、英語科の教師たちの間で噂されている由良君美の行状」とは、酒癖が悪いどころか、ほとんどアルコール中毒になったような由良の行動を指す。それにしても、師匠と仰いでいた人に本を送ったら「すべてデタラメ」と返されるなんて、かわいそう。そりゃあ当惑するわな。そして、決定的な出来事が起こる。

 それが正確に1985年のいつのことであったか、記憶は定かではない。季節はすでに秋に入っていたと思う。わたしが数人の仲間とカウンターで呑んでいると、マダムが「あそこに由良先生がいらしてますわよ」と、わたしに教えてくれた。へえっと思って目を向けてみると、髪の長い若い女性をともなって由良君美が呑んでいる。向こうでもわたしの気配に気がついたらしい。そこでわたしは席を立ち、二人のところまで行って挨拶をした。

 「きみは誰か?」由良君美は詰問するような調子でいった。

 「きみは最近、ぼくの悪口ばかりいい回っているそうだな」

 私が呆気にとられて返答を躊躇っていると、彼は突然に拳骨を振り上げ、私の腹を殴りつけた。それから連れの女性に合図をし、さっさと家を出て行ってしまった。(同169~170ページ)

 四方田と由良の師弟関係が崩れるであろうことは、本書の序盤からにおわせている。しかし、まさかそんなことが起きるとは。読んでいるこちらも呆気にとられるシーンだ。理解不能である。四方田はこの本を書くため、同席していた女性を探し出し、由良の当時の様子を聞いている。この本は由良の死後に書かれている。

 ラインガウから出た二人はタクシーに乗って帰路に就くことになったが、その間酔った由良君美は「四方田が・・・・・四方田が……」と、呪文のように陰鬱に呟いていたという。 由良さんは、四方田さんもまた自分を見捨ててしまった、自分から遠いところへと行ってしまったと、わたしには話していました。井上摂はそう語った。(同172ページ)

 四方田は本の終盤で、師匠であった由良の行動の原因を推理していく。それとともに、師匠とは何か、先生とは何か、師弟関係とは何かがつづられる。

 

 だが、この命題を今少し変奏してみて、「師とは脆いものである」といい直してみたとすればどうだろうか。師は弟子の前で知的権威として振舞いながらも、その一方で、年齢的にも若く、新進の兆をもった弟子に羨望を感じている。条件の整わなかった時代に自分が行なわざるをえなかった試行錯誤を、弟子はしばしば簡単に解決してしまう。彼は新しい方法論をもとに、師には思いもよらなかった道に発展してゆく。弟子が自分の未知の領域に進出して自己を確立し、かつて自分が教えた領域からどんどん遠ざかってゆくのを、師は指を銜えて眺めていなければならない。だが自尊心は嫉妬と羨望を率直に口にすることを阻む。 屈折を強いられたこうした感情は、ときに怒りに、ときに悲嘆に、道を見出す。 だが彼は自分のヴァルネラビリティ(攻撃されやすさ)を公にすることができない。どこまでも師として振舞わなければいけないのだ。その内面の脆さに気付く者は少なく、たとえ誰かがそれに気付いても、畏怖感が前に立ってまず言及しない。(同215ページ)

 これはまずもって、四方田自身にも当てはまるという。だが、由良の心情を説明するためのパートであることは明らかだ。

 由良君美について書こうと思い立ち、彼を知る少なからぬ人たちのもとを訪れて話を聞いているうちにわたしは、あることに気がついた。 わたしが初対面でインタヴューした人や、30年もの空隙の後に再会した人のなかに、由良君美のわたしに対する嫉妬を指摘する人がいたという事実である。それは由良さんのきみに対する競争意識だよ。きみが世界中を気軽にまわって新知識を披露することに対する、焦燥の念の表れじゃあないかな。由良さんはきみがどんどん遠いところに行ってしまい、自分が置き去りにされていると感じていたんだよ。 要約してみると、大体このような指摘だった。(同216~217ページ)

 ここに至って初めて、「嫉妬」の問題が指摘される。なんとなく、そういう展開にいくんじゃなかろうかという予感はあったけれども。

 わたしは自問する。はたして自分は現在に至るまで、由良君美のように真剣に弟子にむかって語りかけたことがあっただろうか。弟子に強い嫉妬と競争心を抱くまでに、自分の全存在を賭けた講義を続け、ために自分が傷つき過ちを犯すことを恐れないという決意を抱いていただろうか。

 わたしが今後悔しているのは、若年だったわたしが、由良君美の人間的な弱さを忖度し、それに共感を向けることができなかったという事実である。わたしは自分が突入してゆく知の世界の驚異と輝きに心を奪われていて、身近にあってわたしを眺めていた他者の心中を慮ることに、まったく無関心であったのだ。 わたしは自分が由良君美を裏切ったことなどないと信じてきたが、彼はわたしに裏切られたという気持ちを強く抱いていた。この認識の違いが思いがけぬ暴力の発作を招いたとき、わたしは当惑し、彼から身を引き離そうと真剣に決意した。だが背信が皆無というわたしの思い込み自体が、実のところ彼からの乖離を証明してはいなかっただろうか。 わたしは無意識のうちに由良君美を敬遠し、彼を顧みない場所へとみずからを牽引していったのかもしれない。(同218~219ページ)

 

 でもいったい、由良先生とは、四方田にとってどういった人だったんだろう。ちょっと長めに引用してみる。

 大学で教鞭を執るということは、大学という巨大な組織のなかで、教師と学生が織りなす錯綜した政治関係のなかに、無防備に身を晒すことに他ならない。わたしもまた25年にわたって複数の大学を移ってゆく間に、その政治が抑圧的に露呈する瞬間にいくたびか立ち会ったことがある。

 ある教師は学生たちに分担して一冊の洋書を翻訳させると、自分の名前で翻訳出版していた。別の教師は、ゼミ生が志望する主題を、そんなものに拘っていては就職口がないよとにべもなく拒絶し、彼女をゼミから排除した。大学院のゼミの場で学部出身者と他大学出身者とを露骨に差別待遇する教師もいれば、留学生を含めて「天皇陛下万歳」の三唱を強要した教師もいた。教師が学生に嗾けるものは、セクハラに限られたものではないのである。一方、学生たちもまた先を読み、将来のポストに有効かを人脈的に計算しながら、教師のゼミを選んでいた。彼らは教師たちのゴシップに異常なまでに敏感であり、いかにも教師に気に入られるようなレポートを作成しながら、陰ではその教師の悪口を平然と並べて差しなかった。外部から来た非常勤講師を「外様」と綽名して憚らない大学院生もいれば、修士論文を落とされて、指導教授を告訴した大学院生もいた。

 由良君美の存在のあり方は、人間関係の織りなすこうした不毛の政治のすべてから超越していた。彼はけっして歯に衣を着せるような批評はしなかったし、大学教師がしばしば職業的に人格化してしまう、自己防衛に由来する韜晦術からも無縁だった。学生の語学的過ちには容赦はしなかったが、文学を論じる場では年齢や立場に拘らず、つねに対等に議論をしようという姿勢をとった。 英語に関してはどこまでも教師として振舞ったが、芸術談義ともなると、自分も目の前の学生も、ともに芸術という超越的な存在に帰依している者どうし、平等にして対等であるといった態度を崩さなかった。 彼は多忙な業務と雑誌連載のなかを割いて、学生の仕出かしたストーカー事件の解決に奔走し、少しでも面白いところのある学生をゼミで発見すると編集者に推薦したり、共同での翻訳を提案して、活躍の場所を紹介した。 由良君美はすべてを、まったく無償の行為として行なった。彼はしばしば理不尽な怒りの発作によって学生を脅えさせたが、ある種の教師に見られるように、執念深く手を回して一人の若い研究者の将来を断ち切るといった卑劣な行動とは、生涯を通して無縁だった。

 由良君美は神話原型論からユートピア思想まで、ロマン主義と希望の論理から終末論まで、また日本古典における韻律論から文化翻訳の原理まで、実にさまざまなことをゼミ生に教えた。だがわたしを含めてゼミ生が受け取ったのは、そうした文芸理論における最先端の方法論である以上に、彼が身につけている知的スタイルであり、書物を前にした道徳とでもいうべきものだった。長い歳月を通して伝えられたのは、フランスの社会学ピエール・ブルデューであれば「ハビトゥス」と呼ぶであろう、人格化された行動の型なるものであった。彼は書物を情報の集積物としてのみ遇することを軽蔑した。 書物はまず質量をもったオブジェであり、整理カードや検索機に還元できない、非能率的な何物かでなければならなかった。ある主題の論文を執筆せんがために、体系的に書物のリストを制作し、それを秩序付けて読み進めるという研究の仕方を認めようとしなかったし、そもそも論文執筆のための労働としての読書という考えを拒否していた。彼は『みみずく偏書記』のなかで書いている。

 「雑然と多様な書物の森にかこまれて暮す。必要に応じてのその群のなかに入り、並べかえ、あれこれ淡い記憶を辿って本の森を彷徨する時間。 これがわたしの頭が、もっと活発に作動する瞬間。本たちのなつかしい顔、忘れていた顔、新顔――それらが意識下の中味を想い起させながら、重なっては離れ、いい思いつきや、着想の糸を織り始める愉しさ」

・・・

 私見するに、由良君美という存在の再検討は、かつては自明とされていた古典的教養が凋落の一途を辿り、もはやアナクロニズムと同義語と化してしまった現在、もう一度人文的教養の再統合を考えるためのモデルを創出しなければならない者にとって、小さからぬ意味をもっているのではないだろうか。わたしはゼミの後で由良君美の研究室に成立していた、親密で真剣な解釈共同体を懐かしく思うが、ノスタルジアを超えて、かかる共同体の再構築のために腐心しなければならないと、今では真剣に考えるようになっている。そのとき旧来の師という観念がどのような変貌を遂げることになるかは、まだ予想がつかない。だがいずれにせよ、人間に知的世界への欲求が恒常的に存在しているかぎり、師と弟子によって支えられる共同体は、けっして地上から消滅することはないだろう。(同230~233ページ)

 僕もちょっと大学院に行っていたので、政治的な動き、人間関係の嫌なところなんかは遠目に見たことはある。当事者になったことはないが。まあ大学に限らず、どこの会社、社会でもあるものだろう、「人間関係の織りなすこうした不毛の政治」って。そこから徹底的に超越するというのは、なかなかできることではない。

 「だがわたしを含めてゼミ生が受け取ったのは・・・彼が身につけている知的スタイルであり、書物を前にした道徳とでもいうべきものだった」というのも、いい。まさに「ハビトゥス」やな。そう考えると、僕もゼミの先生とか、ほかの先生から受け取った「ハビトゥス」ってあるかもしれない。大学~大学院でお世話になった先生には、ふるまい方とかを習ったような気がする。それこそもっと直接的に、今回休むことになって、アドバイスをもらいにいったし。あえて俗っぽい言い方をすると「生き方」ということになるだろうか。そんなことを考えた。

大沼保昭・徐英達編『新版 在日韓国・朝鮮人と人権』

・日本へ来るまでの過程。経済的要因の分析。あと、出身地は韓国の南部に多い。

姜(在彦) だから強制連行の始まる一九三八年までは、二つの要因があるわけです。ひとつは、朝鮮人が日本だけではなくて中国東北部とシベリアに流れていく、海外流民を排出していく朝鮮の内的な要因があります。 もうひとつは、日本の資本が朝鮮人労働者を必要としたこと。低賃金、長時間労働、過酷な労働、不潔な作業、つまり日本人が嫌う労働を日本の資本が必要とした。しかもこれはいつでも首を切れる景気調節弁なんですね。そういう二つの側面があって、敗戦前のいろいろな調査結果を見ると、朝鮮での農民が、日本での労働者に転化する形態が分かるわけです。つまり、主として一九三八年までは、植民地支配下の朝鮮の農村状況、農村経済の破綻というものがあった。土地調査結果を見ると農家戸数の三パーセント、約九万戸の地主が、全耕地面積の半分以上を所有している。そして、一〇〇万戸あまりが小作農です。 家族までいれたら五〇〇万人くらいになるんじゃないかと思います。一〇五万戸くらいの農家が自作兼小作なんです。つまり、二〇〇万戸あまりの農家が、農村において農業では食えない層だから、本当は朝鮮で近代産業が発展していれば吸収される層なんだけれども吸収されない。 それが国内に停滞し、一部は外部へと流れて行く。主たる流れ先は、日本と中国東北部なんだけれども、地域的には、南部からは日本、中部以北からは中国東北部へと中国東北地方には今でも一七〇万人ぐらいいるでしょう。

大沼 そういうわけで在日韓国・朝鮮人の大部分が、自分の両親やおじいさんやおばあさんの出身地というのが朝鮮半島の南部に片寄っているという事情があるわけですね。

姜 統計数字を見れば今でもそうなんですが、一番多いのは慶尚南道、次に多いのが慶尚北道、済州道 全羅南道の順です。(大沼保昭・徐英達編『新版 在日韓国・朝鮮人と人権』有斐閣、2005年、71~72ページ)

 

・日本に残るいきさつの説明

姜 そうです。しかも一九四六年の三月段階で残っていた約六五万人の中で帰国希望者は五一万四、〇〇〇人余りいました。これがその後、若干帰ったんだけれども、基本的には帰る足が鈍るわけです。鈍った原因として二つ考えられるんです。ひとつは、日本政府がだいたい一人当り一、〇〇〇円以上持ち出してはいけないという命令を出したんです。在日年数が長い人ほど何がしかの財産が日本にあるんですね。小さなバラック建ての家一つ持っていても、これはほったらかさなきゃいけないし。しかも、かれらには故郷に生活する基盤がない。ましてあのインフレの非常に激しい時期に一、〇〇〇円では帰れないんですね。もう一つは、在日朝鮮人の出身地から見たらその九八パーセントが南部の出身だったんです。我々は、日本からの解放が独立だと考えていたわけです。ところが実態はといえば、日本の支配にかわってアメリカの軍政がしかれるというような状況があって、そこにひとつ失望が起こってくる。しかも、このアメリカの軍政に反対する闘いが非常に熾烈になってくるんですね。だから、政治的な困難、経済的な困難で、もう帰れない。そこでしばらく情勢を見ようという状況があって、帰りを待った人たちが、駅付近にたむろするでしょ。そこであらゆる駅、大阪駅とか名古屋駅付近に朝鮮人闇市がたくさんできるようになったわけです。つまり帰国を待つ人たちが駅付近にたむろして、食べなきゃいけないから、しばらくの間、持っている服を売って食べ物を買うとかしているうちに、そこにおのずと闇市ができたわけです。また、帰国する前に子供にせめて朝鮮語でも教えてやろうということで、できあがったのが国語講習所です。 これが朝鮮人学校の始まりなんです。(同83~84ページ)

 

・1世と2世の違い。2世は定住を前提に、生き方を模索

姜 従来、潜在的なかたちではあったんですけれども、つまり二世、三世ですね、こういう人たちが、在日を問う、これがだいたい七〇年代ですね。いわゆる足元を見ようと。いつも我々の親父とおじいさんは海のむこうばかり見ているんだけど、我々の足元はどうなっているのかと。一世というのは、どうしても意識の重点が祖国に置かれている。 二世は在日の原理に重点を置いて、当面「在日」とは何か、いかに「在日」を生きるか、ということが中心になってくるわけです。(同89ページ)

 

生野区に多い理由

徐(英達) 大阪でも生野地域に韓国・朝鮮人が非常にたくさん住んでいる。これのいわれは、住吉区の向こうの方に、いま平野川となっていますけれども、昔は百済川という川がありまして、その百済川の掘削をして新しい平野川を作る土木工事に済州島などから韓国・朝鮮人が多数移住して、そのあと定着したのが、今の生野地域に韓国・朝鮮人が四万人も住むようになった大きな原因のようです。 敗戦前、そういう人々が工員、運転手とかいうかたちで働いていたものが、敗戦後、独立できる人は小さいなりにも町工場的なものをやっていくということで、比較的大阪では機械いじり屋というのか、 工業関係の職業が多いのです。 大阪韓国人商工会の資料では、鉄鋼金属化学工業などが三三パーセント以上を占めています。そのほか特徴的なことは、たとえば泉州あたりは毛布、綿織物だとか紡績だとかが多いですね、地域ごとに若干の特徴があるわけです。(115ページ)

 

・つかこうへいの話。『蒲田行進曲』のヤスの話。

金(総領)・・・それと、これはまだ断言はできませんけれども、 匂いとしてそう感じますけど、つかこうへいさんがいます。金峰雄さんといって韓国籍です。彼が書いている、たとえば『蒲田行進曲』の中に出てくるヤスさんですね。これはいつもスターの銀ちゃんの面倒をみて、銀ちゃんにいじめられていつも抑圧されているんだけれども、といってウジウジしない、一種不思議な博愛人間なんですね。そのくせ、やはり自分の被虐をどこかへ発散せずにもいられない。このヤスさん的人間を描いた、つかさんの感性というものは、私の第六感では、作家が在日韓国・朝鮮人として育つうちに体得したものだという気がするんです。(同135~136ページ)

 

・70年代。市民運動、人権意識の高揚

大沼(保昭) 教育以外にも七〇年代には、住民運動的な形態をもつ行政差別撤廃運動がかなり行わ れましたね。

裵(重度) 日立就職差別裁判闘争は七〇年二月に始まって、七四年の六月に横浜地裁で勝利判決が出て、その年の八月に日立本社と直接の交渉をもって、運動的にも終了するというかたちをとるんですが、 日立闘争が展開される中で、韓国・朝鮮人の置かれている立場はこうであるというようなことがいろいろ議論されるわけですね。そういうことがひとつの啓発になって、川崎で七四年の四月に日立の集会をやったときに児童手当をもらえないということが外国人だから仕方がないのか、それとも差別なのかという素朴な問いかけが出てきたわけです。 僕らは児童手当というのは、基本的な人権に類することと同時に、我々は納税の義務を果たしているから当然もらっていいものであると考えたわけです。 であるならば、それを行政に要求をしていこうではないかと。 そして、これまでに行政が住民である在日韓国・朝鮮人にいったい何をしてきてくれたんだろうか、戦後三〇年間何もしてくれたことはないんじゃないか、ずっと放置されたままであるということに気づいたわけです。そういう発想の中から行政にもものを言っていこうとなったわけです。同時に日本社会では「お上」という発想が強いから、行政が変われば、いわゆる一般の人達、民間も変わっていくのではないかというところから、川崎市に対して児童手当の支給、それから公営住宅の入居資格の要求を始めたわけですね。

徐(英達) ほぼ同じ頃、関西では在日韓国人民主懇談会、在日韓国朝鮮人大学教員懇談会、在日大韓基督教会館などが、七四年春、韓国・朝鮮人の人権擁護運動を始めることを決め、とりあえず大阪府 大阪市公営住宅入居差別撤廃運動に取り組みました。その場合、たんに差別撤廃の達成のみを目指すのではなくて、できるだけ多くの同胞が「人権意識」に目覚めるように行うことが確認されていますね。(同160~161ページ)

 

・70年代の大阪での運動。革新知事

徐(英達) 運動の足並みをそろえるには日数がかかりましたが、いちばん大きな成果は大阪府営住宅の入居差別撤廃運動だと思います。 建設省の入居通達よりも五年早く、大阪では撤廃できたわけです。当時の黒田了一知事、大阪市立大学憲法の教授が、共産党の支持母体を持って知事になられました。 その黒田知事に対する、「公営住宅入居差別撤廃、児童手当、福祉年金」等の要求を「公開質問書」と「申入書」の形で出したのは、一九七四年〇月四日でした。 大阪市長大島靖氏に対しても同月一一日に同文の要請をしました。 解決は早く、翌七五年一月二〇日に大阪府が、また同年二月七日に大阪市がまず公営住宅入居を認めたのです。(同205~206ページ)

 

・1980年代、指紋押捺拒否の運動

大沼(保昭) 七〇年代が在日韓国・朝鮮人と日本人との連帯に基づく、日常生活に張りめぐらされたさまざまな差別の撤廃運動の時期であるとすれば、八〇年代にいちばん象徴的なのは外国人登録法における指紋押捺制度の撤廃運動でしょう。 指紋押捺制度は、定住外国人に対する差別の象徴として、在日韓国・朝鮮人の側からも、また日本人の側からも非常に強い批判を受けた。おそらく、戦後の外国人の権利要求運動の中で、最も広汎で劇的な盛り上がりを見せたのが、この指紋押捺撤廃運動だったと思います。

田中(宏) 一九八〇年九月、新宿の区役所で韓宗碩さんが拒否したのが第一号と通常言われています。調べてみると、導入された一九五〇年代に拒否した人もいるのですが(一九五六年11月 下関市の安商道さんら)・・・(同211ページ)

 

大沼保昭の論文「人差し指の自由のために」の話

大沼(保昭) もう一つ、これは公平のために言っておくべきだと思うのですが、日本政府の中にも、「指紋押捺制度というのはあまりにも屈辱的なものではないか」と言われたとき、その思いを共にした人は結構いたわけです。 田中さんと私は、法務省の入管局とはずっとハブとマングースのような関係だったのですが、喧嘩をやっていると向こうのこともよくわかってくる。

 指紋押捺撤廃運動を盛り上げるというねらいを込めて、「人差し指の自由のために」という論文を『中央公論』に書きました。 これは当時かなり読まれて、いろいろ新聞などでも取り上げられましたが、あの時に、法務省の入管の役人が、「あれが出たときは参った。これは負けたと思った」と言っていましたね。彼によると、入管局の中でも前から「何とかしないと」と思ってはいたけれども、「人差し指の自由」というキャッチフレーズは非常にショックで、彼らとしてもこれで頑張るのはもうやめたほうがいいと思ったと言っていましたね。

田中(宏) 一九八四年の何月でしたか。

大沼 八四年の八月の『中央公論』でした。(同213ページ)

 

・小中学校教員の任用の問題について

徐(英達) これは、我々、市民運動の立場では、「当然の法理」がある程度崩壊状態だ、というような解釈が一部ありますけれども、 小中学校の先生が公権力の行使、あるいは国家意思、地方意思の形成に参加をする職種だという、その解釈が非常に強いまま残っているような現状をどうすれば打開できるのかと悩みましたよ。

大沼(保昭) 小中高校の学校教員の場合ですね。

徐 地方自治体での問題です。 先ほどの大学教員の場合は国公立の大学の教員に関しては「当然の法理」の適用には当たらないのだという解釈をすることによって任用が進むことにはなったかと思うのです。

田中(宏) この問題に関してどう考えたらいいのかずっと気になっているのです。 先ほど言った「地方分権一括法」ができた後、こういう問題は一般論としてどうなってくるのかなと思っているのです。外国人登録原票の開示問題については法務省は逃げたわけですよ。 公安調査庁のためにあまり体を張ることはないと思ったかどうか知らないけれども、うまく逃げたわけです。そうすると、公立学校教員の場合も、 公務員に関する 「当然の法理」 という内閣法制局の見解が出ているわけでしょう。 従来は上下関係にあったかもしれないけれども、いまでは国と自治体とは対等の関係だということになってくると、どうなるのか。 例の一九九一年の「日韓覚書」によって、外国人の公立学校教員については採用試験は国籍条項を外してオープンにする、ということになったわけです。ところが、合格した場合、採用するときは「教諭」ではなく「常勤講師」にする、ということを文部省は現場に通達しているわけです。 これがいまでも生きているのかどうなのか。 「地方分権一括法」の後の現在はどうなるのか。

 というのは先ほど大沼さんが言いかけていた民族教育の関係で、一九六五年通達があるではないですか。 これについて、政府は国連で、国と地方との関係が変わったことによって、あの通達はいまでは失効している、と回答しているのです。その場合には、国と自治体の関係が変わったので、それ自体が効力がなくなっているということでしょう。

 そうしたら、教育助成局長が、採用した場合には常勤講師にしろとした通達はどうなるのか、ということが気になっているのです。 こうしたことは、全体にかかわることですよね。

大沼 先ほどから問題になっている「当然の法理」というのは、法的に言うと非常に奇妙な形になっていて、実は、国家公務員についても地方公務員についても、法律の明文上は国籍要件はないわけです。国籍要件がないのになぜ外国人が駄目かというと、それは外国人なのだか当然駄目なのだと、そういう通達が大昔に出されている。公権力の行使または国家意思、地方公共団体にあっては公の意思形成への参画に携わる公務員となるためには日本国籍を必要とすると。これは「当然の法理」 であると政府は言ってきたわけです。 先ほど徐さんがおっしゃったように、国公立大学の教員以外のレベルではそれは変わっていない。 外国人教員任用法案を通すときに、高校以下については変わっていないのだという通知まで、政府はわざわざ出し ているわけです。

 ところが、この「当然の法理」の「当然」というのは、一九四八年の法務調査意見庁長官の回答というものが基礎になっている。ここでは、公務員というのは国家に対する忠誠と一身を捧げる無定量の義務があるのだというような、まさに帝国官吏の意識をそのまま表わしている。その一九四八年の観念が二一世紀のいまだに維持されているとしたら、本当にたまりませんね。私は、戦後、特に一九八〇年代以降、一般の在日韓国朝鮮人の運動家や学者に比べれば、日本社会が変わってきたことをもっと高く評価すべきだと主張している。 あなた方は要求ばかりしているけれども、日本社会が前進している面を評価しないのはフェアではないとも言っている。その点は、この問題にかかわる者の中で、かなり日本政府の努力を認めるほうですけれども、その私から見ても、この「当然の法理」を二一世紀のいまだに維持しているというのは、信じがたい時代錯誤というほかはない。

徐 時代錯誤というより、運動側がもっと政府を追及してそれを継続してやる必要があるのではないかという気がします。日本にはアイヌ民族に対する差別的な「旧土人法」が一〇〇年間も生きていましたから。結局、マイノリティの皆さんは運動する力もなくて、抑えるほうはそれを利用していいことにしてしまっているという面があります。我々も、一つの法律ができて、それで安心するのではなくて、継続して問題点をずっと追及していくという姿勢が少し弱かったという反省もあります。「外国人教員任用法」ができた後に、もう少し皆さんが運動を継続すれば、小中学校の常勤講師の問題も突破ができたのではなかろうかという、いま思うとそんな気がしないでもないのですが。

田中 現場ではかなり動いている。この間も、関西のほうでこの常勤講師の問題で、いざとなれば裁判をやるか、というような話も始まっているみたいですから。

大沼 裁判をやるといっても、時間が経ちすぎていますよ。あれは問題になってからもう一○年以上経つわけでしょう。

田中 でも、教育委員会の中はすごく大変みたいです。

〔追記〕 「当然の法理」をめぐって、最高裁は二〇〇五年一月二六日、東京都の管理職選考の受験拒否は合憲であるとの判決を言い渡した。都保健師の鄭香均さんが勝訴した九七年の東京高裁は取消され、原告敗訴が確定した。ただ、一五人のうち二人の裁判官は受験拒否は違憲である、との反対意見だった。

 自治省(当時)は、一九八六年六月、地方公務員の看護婦、保健婦助産婦の採用には国籍要件は不要と各自治体に通達し、八八年、鄭さんは外国人として初めて都の保健師に採用され、九二年主任試験にも合格した。 九四年三月、上司から管理職試験の受験を勧められ、気軽に願書を提出した。 都は外国人であることを理由に受験を拒否したが、その選考要綱には「国籍要件」はなかった。都は「当然の法理」を持ち出してその理由を説明し、なんと、翌年から要綱に「国籍要件」を追加したのである。

 鄭さんは悩んだ末、最初にぶつかった者が声を上げなければと、提訴に踏みきった。 九六年の東京地裁は敗訴だったが、 九七年の高裁判決は逆転勝訴だった。高裁は、まず「①国の統治作用である立法、行政、司法の権限を直接行使する公務員(たとえば、国会議員、大臣、裁判官など)、②公権力を行使し、又は公の意思形成に参画することによって間接的に国の統治作用にかかわる公務員、③それ以外の上司の命を受けて行う補佐的補助的な事務又は専ら学術的技術的な専門分野の事務に従事する公務員とに大別できる」とした。 そして、外国人は①に就くことはできないが、③に就くことは差し支えないとし、 ②については、その職務内容を具体的に検討し、①か③かを区別する必要があり、「一律にすべての管理職への任用(昇任)を認めないのは相当でなく」、③に属する管理職への任用については、憲法二二条の職業選択の自由や同一四条の平等原則の保障が及ぶとして、鄭さん勝訴を言い渡した。

 最高裁は、こうした審査を回避して、 都の受験拒否をも自治体の裁量の範囲内として追認したのである。その点は、「今回の判決も、外国人の公務員任用に関し自治体の裁量を広く認めた趣旨と受けとめるべきだろう」との「日経」の社説が当っていよう。 田中宏) (同241~245ページ)