査読結果が返ってきた。修正後再投稿となった。
論文は、ただ書けば掲載されるものではない。匿名の審査者が2人いて、その人たちからの審査を受ける。「掲載可」「条件付き掲載」「修正後再投稿」「掲載不可」といった審査が下される。その2人の審査をもとに、編集委員会が、その論文を雑誌に掲載するかどうかを決めるのである。
なぜこんな面倒な手続きを取るかと言うと、ひとえに、その雑誌の学術的水準を保つためである。学術的価値の低い論文が載る雑誌は、それ自体が価値が低いとみなされる。へんな論文が載らないために、査読という制度を採用している。なので、「査読付き論文をいくつ持っているか」というのが、学術界では一つの価値になるのである。わかりやすい業績となるのだ。
今回の査読コメントでは、とてもありがたい、貴重なコメントをもらった。どれも納得のいくもので、確かに直したほうがいいし、むしろ直さずに世に出したら恥ずかしいと思えた。
査読はこういうプロセスなんだと、最近納得できるようになった。原稿を良くするため、ちゃんとした論文にするために必要な、必須の過程なのである。去年はけっこう落とされて、へこんでいたし、なんならムカついていた。そういう自分はレベル低かったなと思う。
たしかに、たまにダルい査読者というのは存在するが、まあ大抵はちゃんとした人なので、投稿者よりも何倍も上にいる人なのだ。経験があるし、先輩である。ジュニアスカラーがシニアスカラーから教えてもらう立場にあるというのは、当たり前のことである。
今回は丁寧な査読をしてもらって、ほんとにありがたいと思った。おかげで、博士論文にするための1章がもう書けそうになっているし、ありがたいことこの上ない。査読者に感謝をしながら、期日までにきちんと修正していきたい。
あと、僕はたぶん新聞記者の経験からだろうが、原稿には全くこだわりがない。編集者とのやり取りでも、指摘は全部取り入れる。直すことになんの抵抗もないのだ。というか、直してもらわないと逆に不安になる。自分のことをどこか信頼していないところがあって、どこかしら訂正されたり、指摘されないと不安なのだ。
こういうマインドだから、査読対応は全然抵抗なくやれる。たしかに査読者の言う通りだし、はっきり指摘してもらってありがたい。あと、口頭じゃないのがいい。新聞記者時代の上司は口頭で雰囲気だけ伝えてくるから、忖度する必要があり、それがしんどかった。査読は全部文書でのやり取りなので、誤解が少ないし、分かりやすい。
他人からの指摘は、口頭だと、やっぱりちょっとイラッとしたりする。言い方がわりと下手な人が多いと、いまの研究業界にいて思う(新聞もそうだったが)。人への指摘が上手い人って珍しい。
文章になると、お互いに冷静なので、やり取りしやすい。この点でも、査読はいいものだと素直に思える。