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映画の感想と勉強日記

ニーチェ『道徳の系譜学』

ニーチェの『道徳の系譜学』から、ポイントと思ったところを抜き出していきます。中山元さんの訳は読みやすいので、ぜひ読んでみてください。

道徳の系譜学 (光文社古典新訳文庫)

 

目次

第一論文「善と悪」と「良いと悪い」

第二論文 「罪」 「疚しい良心」および これに関連したその他の問題

第三論文 禁欲の理想の意味するもの

訳者あとがき

 

序の小見出し

一 自己認識という難問

ニ 認識の樹

三 アプリオリな問い

四 道徳の系譜学の前史

五 同情の哲学

六 道徳の危険性

七 道徳の歴史の重要性

八 読解の習練

 

第一論文の小見出し

一 イギリスの心理学的な道徳研究の功績

ニ 〈良い〉と〈悪い〉という概念の起源

三 有用性の仮説

四 良いと悪いという語の起源

五 戦士としての良き者

六 司牧者階級における危険な転換

七 ユダヤ人による価値転換

八 イエスという〈道具〉

九 教会の役割

一〇 ルサンチマンの人間の特性

一一 高貴な種族と凡庸な種族

一二 人間に倦むこと

一三 弱き者の自己欺瞞

一四 理想の製造工場の魔術

一五 天国と地獄

一六 ローマとユダヤの戦い

一七 これからの問題

注 懸賞論文のテーマ

 

本書の問い

すなわち、人間はどのような条件のもとで、善いとか悪いとかの価値判断を下すことを考えだしたのだろうか? そしてこうした価値判断そのものには、どのような価値があるのか? この価値判断はこれまでのところ、人間の繁栄を阻害したのか、それとも促進したのか? この価値判断は人間の生の困窮、窮乏化、 堕落の兆候なのだろうか?それとも反対に、人間の生の充実と力と意志の現れであり、その勇気と自信と未来がそこに示されているのだろうか?(13ページ)

本書の主題

ついには新たな探求の声が響くようになる。この新たな探求の声を口にだして語ってみよう。すなわちわたしたちには道徳の価値の批判が求められている。道徳の価値の価値そのものに、ひとたびは疑問のまなざしを投げることがあ が求められているのである――そしてそのためには、これらの価値が生まれ、発展し、変遷してきた条件と状況についての知識が必要となる(何らかの結果としての道徳、兆候としての道徳、仮面としての道徳、偽善としての道徳、疾病としての道徳、誤解としての道徳。 しかしそれだけでなく、原因としての道徳、治療薬としての道徳、興奮剤としての道徳、抑制剤としての道徳、毒物としての道徳について)。こうした知識はこれまで存在していないだけでなく、求められてもいなかったのである。(21ページ)

「良い」という言葉の起源

わたしたちの問題は、静かに語ることのできる性質のものであるのは当然であり、ごく少人数の人々の耳を選んで語られるものであるから、次のことを確認しておくことは、少なからず興味のあることであろう。すなわち「良い」ということを示す語群とその語根には、まださまざまな形で貴族的な人間が自分のことを高い位階の人間であると感じていたことをうかがわせる強いニュアンスが、ほのかに光り続けているのである。貴族的な人間はほとんどの場合、力において優位に立っていることに基づいて自分を名づけたか(その場合には、「権力者」「主人」「命令者」のように自称しただろう)、こうした優位をはっきりと示すしるし〉に基づいて、たとえば「富裕者」とか「有産者」と自分を名づけたのである(それがアーリアという語の意味である。…(41ページ)

ユダヤ人による価値転換

ニーチェ反ユダヤ主義に利用された歴史がかつてあり、この引用部分は読解注意。前後の文脈を割愛して引用したことを断っておきます。

ユダヤ人とは、貴族的な価値の方程式を(すなわち良い高貴な力強い美しい= 幸福な神に愛された)、凄まじいまでの一貫性をもって転倒させようと試みた民族であり、底しれぬ憎悪の無力な者の憎悪の歯を立てて、その試みに固執した民族なのである。すなわちユダヤ人にとっては「惨めな者たちだけが書き者である。貧しき者、無力な者、卑しき者だけが書き者である。苦悩する者、とぼしき者、病める者、働き者だけが敬愛なる者であり、神を信じる者である。浄福は彼らだけに与えられる―それとは反対に汝らよ、汝ら高貴な者、力をふるう者よ、汝らは永遠に悪しき者であり、 残忍な者であり、欲望に駆られる者であり、飽きることを知らぬ者であり、神に背く者である。 汝らは永久に救われぬ者、呪われた者、堕ちた者であろう!」というわけだ…(50-51ページ)

ニヒリズム

これこそがヨーロッパの宿命なのだ―わたしたちは人間を恐れることを忘れるとともに、人間を愛することも、人間を尊敬することも、人間に期待をかけることも、人間たることを意志することもなくなってしまったのである。人間を一瞥すると、ひたすらむばかりである―今日のニヒリズムとは、それ以外のどんなものだろうか?………。わたしたちは人間というものに倦んでいるのだ……。(72ページ)

弱き者の自己欺瞞

抑圧された者、踏みつけにされた者、暴力を加えられた者は、無力な者の復讐のための狡智から、次のように自分に言い聞かせて、みずからを慰めるものだ。「われわれは悪人とは違う者に、すなわち善人になろう! 善人とは、暴力を加えない者であり、誰も傷つけない者であり、他人を攻撃しない者であり、報復しない者であり、復讐は神に委ねる者であり、われわれのように隠れている者であり、すべての悪を避け、 人生にそれほど多くを求めない者である。われわれのように辛抱強い者、謙虚な者、公正な者のことである」。――しかしこの言葉を先入見なしに冷静に聞いてみれば、そもそも次のように言っているにすぎない。「われわれのように弱い者は、どうしても弱いのだ。かわかれば、それを為すだけの強さをもたないことは何もしないほうがよいのだ」。

……

あたかも弱い者の弱さそのものが―言い換えれば、弱い者の本質であり、その働きであり、取り除くことのできない唯一の不可避的で全体的な現実である弱さそのものが、自由意志に基づく一つの業であり、みずから望み、選択したもの、一つの行為であり、一つの功績であるかのようにである。

……

この種の人間は、無頓着な選択の自由をもつ「主体」というものを信じることを必要としているのだが、それは自己保存の本能が、自己肯定の本能が働くからである。こうした本能では、どんな嘘でも神聖なものとされるのだ。主体が(あるいは通俗的な言葉では魂が)これまで地上で最善の教義だったが、それはこの教義によって死すべき人間たちの大多数、あらゆる種類の弱き者たちと抑圧された者たちが、弱さそのものを自由〉として解釈し、あるがままの現実を功績として解釈する、崇高な自己欺瞞に満足できるようになったからにほかならない。(75-76ページ)

ローマとユダヤの闘い

結論をだそう。 「良いと悪い」と「善と悪」という二つの対立する価値評価は、数千年に及ぶ恐ろしい闘いを地上で繰り広げてきた。

......

これまで、この闘いほどに、この問題設定ほどに、この不倶戴天の敵対関係ほどに、重要な帰結をもたらしたものはないのである。ローマはユダヤ人のうちに、反自然そのもの、まさにみずからに対蹠的な怪物が存在すると感じていた。 ローマにおいてはユダヤ人は、「人類敵視の罪と結びつけられた」 人々と判定されたものだった。人類の安寧と将来が、ロー マ的な価値に、そしてそれに伴う貴族主義的な価値の絶対的な支配に結びつけられるのが正しいものであるかぎり、それは正しいのである。(86-87ページ)

ローマ人

ローマ人は強い者であり、高貴な者だった。かつて地上にローマ人よりも強く高貴な人々は出現したことがないし、そのようなことを夢想した人は誰もいないのである。ローマ人が残したすべてのもの、碑文の一つでも、そこに何が書かれているかを理解することさえできたならば、わたしたちを陶酔させるほどである。

ユダヤ

反対にユダヤ人とは、傑出したルサンチマンの民族、司牧者の民族であった。比類のない民衆道徳の天賦の才がそなわっている民族だったのである。

ところでこの両者のうちで当面のところ勝利を収めたのはどちらだろうか、ローマだろうか、ユダヤだろうか? そのことに疑問の余地はない。現在ローマの中心地で、 すべての最高の価値を体現する者として、人々が崇拝しているのは、誰であるかを考えてみてほしい――ローマだけではなく、地球のほぼ半ばを占める地域において、人間が飼いならされたか、飼いならされることを望んでいるすべての地域においてである。それは周知のように、巨人のユダヤの男たちと、一人のユダヤの女である(ナザレのイエス、漁師のベトロ、テント作りの職人のパウロ、そして最初にあげたイエス の母のマリアの前に頭を下げているのだ)。

……

ローマが屈服したのはまったく疑う余地のないことなのだ。

……

ユダヤはさらにフランス革命において、ふたたび古典的な理想に勝利を収めたが、 これはさらに深く、決定的な意味をもつ出来事だった。ヨーロッパに存在していた最後の政治的な高貴さが、すなわち一六世紀と一七世紀というフランスの世紀の政治的な高貴さが、民衆的なルサンチマンの本能のもとで崩壊したのである

……

しかしそのただなかにおいて、きわめて奇怪なこと、きわめて意外なことが起きたのだった。古代の理想そのものが、肉体をおびて登場し、前代未聞の華麗さをもって、人類の目と良心の前に現れたのである。これは、多数者の特権というルサンチマンの昔ながらの偽りの合い言葉に抗しながら、 人間を貶め、卑しいものとし、凡庸なものにし、衰退させ、頑落させようとする意志に抗しながら、少数者の特権という恐ろしくも魅惑的な反対の合い言葉を、ふたたび、かつてなく激しく、簡明に、そして貫きとおす力をもって、鳴り響かせるもの だったのである! ナポレオンこそがその人物であり、

…… 

ナポレオンのうちで、高貴な理想そのものの問題が、人間の姿で現れたのである。――それがどのような問題であるかを熟慮されたい。ナポレオン、この人ならざる人と超人の総合······。(88-90ページ)