Hooney Got His Pen

映画の感想と勉強日記

四方田犬彦『先生とわたし』

 四方田犬彦が東大で出会った「先生」である由良君美(きみよし)との話をつづった本。四方田犬彦は、由良のゼミに入って何を学んだのか。学生当時の思い出話にとどまらない。四方田が批評家になってからも交流は続くが、ある出来事によって二人は疎遠になる。でも、いったいどうして。そもそも、ある人にとって「先生」とは何か、あるいは「師匠」とは何か。本は静かな筆致だけど、けっこうびっくりするエピソードが書かれてあって面白かった。

 以下は、どう考えても、蓮實重彦について書かれた部分。大江健三郎の一歳年下というのも一致するし。

 わたしに最初にフランス語の手解きをしてくれたある教師の反応は冷淡なものだった。「不愉快ですね。きみはてっきりM君やS君などといっしょにパリに行くものだと思っていました。韓国にも映画はあるんですか」との言葉はわたしを深く失望させた。もし先生であるならば、弟子が最初の海外渡航を、それも当時の日本で蛇蝎のように嫌われていた国への渡航を決意したときに、何らかの励ましの言葉をかけるのが本筋ではないだろうか。この教師は東大仏文で大江健三郎の1年下の学年だった。だが当時、金芝河の救援運動に関わっていた大江とは対照的に、とにかく身近で韓国なりアジアという言葉が口にされるのを嫌がっている様子がありありと感じられた。ああ、もうこの人は自分の先生でも何でもないなということが、わたしにははっきりとわかった。(四方田犬彦『先生とわたし』新潮社、2007年、40ページ)

 それにしても「韓国にも映画はあるんですか」って、すごいなあ。蓮實らしいといえばらしいけど。いかにも言いそう。四方田はよほど腹が立ったのだろうし、それの意趣返しのつもりで、韓国映画を日本に紹介しまくったのだろうか。この辺は『われらが<他者>なる韓国』に詳しい。あの本も面白かったなあ。

 四方田は、洋書を買いあさり、ありとあらゆる書物を愛好する由良君美の博覧強記さに圧倒されつつも、ゼミに何年も出るうちにようやく話についていけるようになる。やがて四方田自身も韓国留学を経て批評家になり、多くの本を刊行するまでになった。しかし、ある時、自分が書いた本を送ると、驚きの手紙が届く。

 1984年、わたしは現代社会に流通する写真、映画、漫画を記号学の立場から分析してみせた『クリティック』という書物を、冬樹社から刊行した。 わたしにとって最初の、映画批評ではない論文集であり、出版社はそれを「ニューアカデミズム」という気分的な商標のもとに売ろうとしていた。書物を構成する文章の個々のものは、それまで数年間にわたって折りにつけ初出の段階で由良君美に送ったり、直に手渡ししたりしていただがわたしのところに彼が送ってよこしたのはたった一枚の絵葉書で、そこには「すべてデタラメ」とだけ記されてあった。 わたしはひどく当惑した。いったい何がいけないというのか。わたしは、あるいはこの書物に添えられている「ニューアカ」というコピーが、彼を必要以上に腹立たせたのかとも考えてみた。 だがそれでも納得がいかなかった。 わたしの知っている由良君美は、ゼミで学生が見当違いの分析から間違った結論に到達してしまったときでも、あたかも固い結ぼれを丹念に解してゆくように、相手に話しかけ、彼を本来の道へと導いていくだけの、教育者としての忍耐を所有していた人物ではなかっただろうか。 わたしがもしその当時、英語科の教師たちの間で噂されている由良君美の行状についていささかでも耳にしていれば、あるいはもう少し気が軽くなっていただろうか。いや、それはわからない。ともあれわたしはこの葉書のことを誰にも相談できずに、心のなかに仕舞っておくことしかできなかった。(同168ページ)

 ここでいう「その当時、英語科の教師たちの間で噂されている由良君美の行状」とは、酒癖が悪いどころか、ほとんどアルコール中毒になったような由良の行動を指す。それにしても、師匠と仰いでいた人に本を送ったら「すべてデタラメ」と返されるなんて、かわいそう。そりゃあ当惑するわな。そして、決定的な出来事が起こる。

 それが正確に1985年のいつのことであったか、記憶は定かではない。季節はすでに秋に入っていたと思う。わたしが数人の仲間とカウンターで呑んでいると、マダムが「あそこに由良先生がいらしてますわよ」と、わたしに教えてくれた。へえっと思って目を向けてみると、髪の長い若い女性をともなって由良君美が呑んでいる。向こうでもわたしの気配に気がついたらしい。そこでわたしは席を立ち、二人のところまで行って挨拶をした。

 「きみは誰か?」由良君美は詰問するような調子でいった。

 「きみは最近、ぼくの悪口ばかりいい回っているそうだな」

 私が呆気にとられて返答を躊躇っていると、彼は突然に拳骨を振り上げ、私の腹を殴りつけた。それから連れの女性に合図をし、さっさと家を出て行ってしまった。(同169~170ページ)

 四方田と由良の師弟関係が崩れるであろうことは、本書の序盤からにおわせている。しかし、まさかそんなことが起きるとは。読んでいるこちらも呆気にとられるシーンだ。理解不能である。四方田はこの本を書くため、同席していた女性を探し出し、由良の当時の様子を聞いている。この本は由良の死後に書かれている。

 ラインガウから出た二人はタクシーに乗って帰路に就くことになったが、その間酔った由良君美は「四方田が・・・・・四方田が……」と、呪文のように陰鬱に呟いていたという。 由良さんは、四方田さんもまた自分を見捨ててしまった、自分から遠いところへと行ってしまったと、わたしには話していました。井上摂はそう語った。(同172ページ)

 四方田は本の終盤で、師匠であった由良の行動の原因を推理していく。それとともに、師匠とは何か、先生とは何か、師弟関係とは何かがつづられる。

 

 だが、この命題を今少し変奏してみて、「師とは脆いものである」といい直してみたとすればどうだろうか。師は弟子の前で知的権威として振舞いながらも、その一方で、年齢的にも若く、新進の兆をもった弟子に羨望を感じている。条件の整わなかった時代に自分が行なわざるをえなかった試行錯誤を、弟子はしばしば簡単に解決してしまう。彼は新しい方法論をもとに、師には思いもよらなかった道に発展してゆく。弟子が自分の未知の領域に進出して自己を確立し、かつて自分が教えた領域からどんどん遠ざかってゆくのを、師は指を銜えて眺めていなければならない。だが自尊心は嫉妬と羨望を率直に口にすることを阻む。 屈折を強いられたこうした感情は、ときに怒りに、ときに悲嘆に、道を見出す。 だが彼は自分のヴァルネラビリティ(攻撃されやすさ)を公にすることができない。どこまでも師として振舞わなければいけないのだ。その内面の脆さに気付く者は少なく、たとえ誰かがそれに気付いても、畏怖感が前に立ってまず言及しない。(同215ページ)

 これはまずもって、四方田自身にも当てはまるという。だが、由良の心情を説明するためのパートであることは明らかだ。

 由良君美について書こうと思い立ち、彼を知る少なからぬ人たちのもとを訪れて話を聞いているうちにわたしは、あることに気がついた。 わたしが初対面でインタヴューした人や、30年もの空隙の後に再会した人のなかに、由良君美のわたしに対する嫉妬を指摘する人がいたという事実である。それは由良さんのきみに対する競争意識だよ。きみが世界中を気軽にまわって新知識を披露することに対する、焦燥の念の表れじゃあないかな。由良さんはきみがどんどん遠いところに行ってしまい、自分が置き去りにされていると感じていたんだよ。 要約してみると、大体このような指摘だった。(同216~217ページ)

 ここに至って初めて、「嫉妬」の問題が指摘される。なんとなく、そういう展開にいくんじゃなかろうかという予感はあったけれども。

 わたしは自問する。はたして自分は現在に至るまで、由良君美のように真剣に弟子にむかって語りかけたことがあっただろうか。弟子に強い嫉妬と競争心を抱くまでに、自分の全存在を賭けた講義を続け、ために自分が傷つき過ちを犯すことを恐れないという決意を抱いていただろうか。

 わたしが今後悔しているのは、若年だったわたしが、由良君美の人間的な弱さを忖度し、それに共感を向けることができなかったという事実である。わたしは自分が突入してゆく知の世界の驚異と輝きに心を奪われていて、身近にあってわたしを眺めていた他者の心中を慮ることに、まったく無関心であったのだ。 わたしは自分が由良君美を裏切ったことなどないと信じてきたが、彼はわたしに裏切られたという気持ちを強く抱いていた。この認識の違いが思いがけぬ暴力の発作を招いたとき、わたしは当惑し、彼から身を引き離そうと真剣に決意した。だが背信が皆無というわたしの思い込み自体が、実のところ彼からの乖離を証明してはいなかっただろうか。 わたしは無意識のうちに由良君美を敬遠し、彼を顧みない場所へとみずからを牽引していったのかもしれない。(同218~219ページ)

 

 でもいったい、由良先生とは、四方田にとってどういった人だったんだろう。ちょっと長めに引用してみる。

 大学で教鞭を執るということは、大学という巨大な組織のなかで、教師と学生が織りなす錯綜した政治関係のなかに、無防備に身を晒すことに他ならない。わたしもまた25年にわたって複数の大学を移ってゆく間に、その政治が抑圧的に露呈する瞬間にいくたびか立ち会ったことがある。

 ある教師は学生たちに分担して一冊の洋書を翻訳させると、自分の名前で翻訳出版していた。別の教師は、ゼミ生が志望する主題を、そんなものに拘っていては就職口がないよとにべもなく拒絶し、彼女をゼミから排除した。大学院のゼミの場で学部出身者と他大学出身者とを露骨に差別待遇する教師もいれば、留学生を含めて「天皇陛下万歳」の三唱を強要した教師もいた。教師が学生に嗾けるものは、セクハラに限られたものではないのである。一方、学生たちもまた先を読み、将来のポストに有効かを人脈的に計算しながら、教師のゼミを選んでいた。彼らは教師たちのゴシップに異常なまでに敏感であり、いかにも教師に気に入られるようなレポートを作成しながら、陰ではその教師の悪口を平然と並べて差しなかった。外部から来た非常勤講師を「外様」と綽名して憚らない大学院生もいれば、修士論文を落とされて、指導教授を告訴した大学院生もいた。

 由良君美の存在のあり方は、人間関係の織りなすこうした不毛の政治のすべてから超越していた。彼はけっして歯に衣を着せるような批評はしなかったし、大学教師がしばしば職業的に人格化してしまう、自己防衛に由来する韜晦術からも無縁だった。学生の語学的過ちには容赦はしなかったが、文学を論じる場では年齢や立場に拘らず、つねに対等に議論をしようという姿勢をとった。 英語に関してはどこまでも教師として振舞ったが、芸術談義ともなると、自分も目の前の学生も、ともに芸術という超越的な存在に帰依している者どうし、平等にして対等であるといった態度を崩さなかった。 彼は多忙な業務と雑誌連載のなかを割いて、学生の仕出かしたストーカー事件の解決に奔走し、少しでも面白いところのある学生をゼミで発見すると編集者に推薦したり、共同での翻訳を提案して、活躍の場所を紹介した。 由良君美はすべてを、まったく無償の行為として行なった。彼はしばしば理不尽な怒りの発作によって学生を脅えさせたが、ある種の教師に見られるように、執念深く手を回して一人の若い研究者の将来を断ち切るといった卑劣な行動とは、生涯を通して無縁だった。

 由良君美は神話原型論からユートピア思想まで、ロマン主義と希望の論理から終末論まで、また日本古典における韻律論から文化翻訳の原理まで、実にさまざまなことをゼミ生に教えた。だがわたしを含めてゼミ生が受け取ったのは、そうした文芸理論における最先端の方法論である以上に、彼が身につけている知的スタイルであり、書物を前にした道徳とでもいうべきものだった。長い歳月を通して伝えられたのは、フランスの社会学ピエール・ブルデューであれば「ハビトゥス」と呼ぶであろう、人格化された行動の型なるものであった。彼は書物を情報の集積物としてのみ遇することを軽蔑した。 書物はまず質量をもったオブジェであり、整理カードや検索機に還元できない、非能率的な何物かでなければならなかった。ある主題の論文を執筆せんがために、体系的に書物のリストを制作し、それを秩序付けて読み進めるという研究の仕方を認めようとしなかったし、そもそも論文執筆のための労働としての読書という考えを拒否していた。彼は『みみずく偏書記』のなかで書いている。

 「雑然と多様な書物の森にかこまれて暮す。必要に応じてのその群のなかに入り、並べかえ、あれこれ淡い記憶を辿って本の森を彷徨する時間。 これがわたしの頭が、もっと活発に作動する瞬間。本たちのなつかしい顔、忘れていた顔、新顔――それらが意識下の中味を想い起させながら、重なっては離れ、いい思いつきや、着想の糸を織り始める愉しさ」

・・・

 私見するに、由良君美という存在の再検討は、かつては自明とされていた古典的教養が凋落の一途を辿り、もはやアナクロニズムと同義語と化してしまった現在、もう一度人文的教養の再統合を考えるためのモデルを創出しなければならない者にとって、小さからぬ意味をもっているのではないだろうか。わたしはゼミの後で由良君美の研究室に成立していた、親密で真剣な解釈共同体を懐かしく思うが、ノスタルジアを超えて、かかる共同体の再構築のために腐心しなければならないと、今では真剣に考えるようになっている。そのとき旧来の師という観念がどのような変貌を遂げることになるかは、まだ予想がつかない。だがいずれにせよ、人間に知的世界への欲求が恒常的に存在しているかぎり、師と弟子によって支えられる共同体は、けっして地上から消滅することはないだろう。(同230~233ページ)

 僕もちょっと大学院に行っていたので、政治的な動き、人間関係の嫌なところなんかは遠目に見たことはある。当事者になったことはないが。まあ大学に限らず、どこの会社、社会でもあるものだろう、「人間関係の織りなすこうした不毛の政治」って。そこから徹底的に超越するというのは、なかなかできることではない。

 「だがわたしを含めてゼミ生が受け取ったのは・・・彼が身につけている知的スタイルであり、書物を前にした道徳とでもいうべきものだった」というのも、いい。まさに「ハビトゥス」やな。そう考えると、僕もゼミの先生とか、ほかの先生から受け取った「ハビトゥス」ってあるかもしれない。大学~大学院でお世話になった先生には、ふるまい方とかを習ったような気がする。それこそもっと直接的に、今回休むことになって、アドバイスをもらいにいったし。あえて俗っぽい言い方をすると「生き方」ということになるだろうか。そんなことを考えた。