Hooney Got His Pen

映画の感想と勉強日記

関川夏央『ソウルの練習問題』

 

新装版ソウルの練習問題 (集英社文庫)

新装版ソウルの練習問題 (集英社文庫)

 

 

1980年代、韓国が軍事独裁政権だった頃。あまり気軽に観光に行くような雰囲気ではなかった時代、著者はハングルの読み方から勉強をし始めて、韓国語を覚え、現地に行き、韓国料理を食べながら、韓国の色んなあれこれを知っていく。

まず、著者の文体がユニークだ。ルポルタージュという形を取っているが、あくまで私的な旅行記という体裁をとる。著者の韓国語は本書が書かれた2年間で上達していくが、それは「カタコトの韓国語」の翻訳としての日本語として表現される。後半になるにつれてどんどん上手くなっていき、やがては慣用句を使った小気味いい会話を披露したりする。

この本が書かれた1980年代は、韓国といえば当時の政治的なことが話題にされるか、あるいは歴史的な問題について自省するといった内容の本しかなかった時代だ、と著者は言う。その時代にあえて、政治的なことからは一旦離れて、韓国で実際に見聞きしたことをそのままに伝えようとする姿勢に本書の価値がある。

もちろん、政治的なことから離れようとしても、やたらと職務質問をされたり、あるいは韓国人女性との会話の中で歴史的な因縁を感じざるを得ない場面がある。しかし、それはあくまで自然な会話の流れの中で展開されるのであり、人との具体的なコミュニケーションの中でしか存在しない。もっと重要なことは、著者自身は様々な事情を知った上で旅をしているのであり、決して無知なわけではないということだ。それどころか本書自体は非常に啓蒙的であるとも言えるし、この本から入って色んなことを調べたくもなる。

そして、この旅行記が最大限の成功を収めているのは、実際に現地(ここではソウル)に行ってみたくなることだ。本書の書かれた1980年代と現在とはもちろん違っているのだが、だからこそ、著者のような姿勢で言葉を学び、現地で色んな人と会話をし、ご飯を食べて、旅をしてみたいと強く思った。本書の最大の価値はそこにあるだろう。

 

(補足)

本書を読み終えた人で、もし違和感を感じるところがあるとすれば、やはり「あとがき」にあるだろう。盧武鉉ノ・ムヒョン)政権下の2006年ごろに書かれた「あとがき」には現代韓国へのかなり厳しい目線と、朝鮮半島情勢への冷めた視線が満ちている。正直に言うと、評者も一読した時にはかなり驚いた。

しかし、再読してみると、本書の価値は実は「あとがき」にも少なからずあると思った。著者のスタンスが典型的に現れているからである。著者独特のバランス感覚とでも言おうか、少なくとも「進歩的知識人の陥穽」にはまってはいないのだ。

読んでみてもらえると分かると思うが、この「あとがき」はかなり「保守的」だといってもいいだろう。しかし、評者はこの「あとがき」自体は単に保守的だといって切り捨てられるような類のものではないと感じた。むしろ現在の文在寅(ムンジェイン)政権下でこそ読む価値があるように思う。盧武鉉をそのまま文在寅に変えたとしても、批判としては成り立つのだ(このことをどう考えるかはまた別の問題としてあるが)。あるいは、「日本における韓国理解の変遷」として、本編の記述から「あとがき」までを読み比べることも可能だとすら思った。著者のバランス感覚としてもそうだし、ある筋の通った考え方として多くを学べるものだった。色々な読み方ができる本である。