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映画の感想と勉強日記

【メモ】戦後75年の日本外交


戦後75年の日本外交を振り返る | 公 研

兼原さんと白鳥さんの対談から気になるところをメモ

兼原さんの指摘 冷戦期の日本外交

戦後の日本外交は、とても恵まれていたんですよ。安全保障政策として日本が何をやっていたのかと言えば、ソ連の軍事力を抑えるような力は自衛隊にはありませんから、軍事の大きいところは米国に任せて、むしろ国会論戦などで東側の宣伝に世論が引きずられないようにすることでした。要するに、ソ連が得意とする国内浸透工作が奏功して、日米同盟が内側から崩されていくことを止めるということです。国際冷戦への対応と言うよりは、国内冷戦対策ですね。外交と国内政治が結び付いて、国際政治がそのまま国内政治に持ち込まれていました。

戦争に負けた後であり、自衛隊はまだまだ弱く、日本経済は高度成長の前です。日本には、国際政治を動かす軍事力も経済力もありませんでした。敗戦国として、仕方がなかったと思います。ですから、戦後に米国がつくり上げた極東の安全保障の仕組みを守り、米国がつくり上げた自由貿易体制の果実を得ることが戦後の日本外交の目的となりました。端的に言えば、敗戦国日本は復興、復権に必死であり、外交的な能動性はゼロだったんです。

白鳥さんの指摘 1内閣1課題

戦後の日本外交を通史的にまとめていくと、私は20年ぐらいごとに重点が変化している側面があると思っています。1951年のサンフランシスコ講和、56年日ソ共同宣言、65年日韓基本条約、72年の沖縄返還日中国交正常化くらいまではいわゆる戦後処理に関わる事案が外交の主要課題でした。講和で積み残された課題を一つひとつクリアしていった時期だったと見ています。御厨貴先生は、「一内閣一課題」と言っていましたが、こうした外交課題や国際機関への加盟などを並べていくと、外交史がほぼ語れてしまう時代が佐藤政権までは続いたと言えるのかなと。

 

白鳥さんの指摘 利益 貿易摩擦

国際社会を捉える体系として、「力・利益・価値」という見方があります。これは高坂正堯先生の言葉ですが、70年代の日本はこの中の利益に関しては世界の中で責任を果たそうとしていました。日本は「rising economic power(台頭する経済大国)」として、その役割をさまざまに模索し、検討していた時期なのではないかと思います。ドルショックへの対応では躓きましたが、石油危機後には74年の国際エネルギー機関(IEA)の設立やG7サミットへの参加などは、日本は大きな役割を果たしたのだと思います。

ところがそれが落ち着いてくると、今度は貿易摩擦や経済摩擦の解消にばかりに追われるようになっていきました。このことには、80年代の国際主義的な研究者や実務家たちもいろいろな不満を漏らしています。とは言え、当時のアメリカやイギリスの外交文書を読むと、日本に対してかなりの警戒が向けられていたことが窺えるんです。これはちょっと前の中国に対する警戒と同じようなものですね。日本が経済的な覇権を握るのではないかという脅威論が出てきている。それに対して日本は、自分たちはあくまで現状維持国であって、現状を打破しようという野望を持っているわけではないという説得を試みることで安心してもらおうとしていた印象があります。

兼原さんの指摘 貿易摩擦 オリンピックの喩えが分かりやすい

この辺りは、自由貿易という競争をオリンピックに喩えるとわかりやすいかもしれません。日本が経済成長を遂げて、英仏独を抜いて銀メダルを獲り、無邪気に「次は金メダルだ!」なんて言っていても、トップを走っている米国からは覇権を求める野心に見え、権力闘争の開始だと取られるのです。そして、いつの間にかにルール自体が変えられてしまう。短距離走だと思っていたのが、「これはプロレスだ!」なんてことになる(笑)。

アメリカが中国に対してやっていることもそういう面があります。80年代、日本は自分で気付かないうちに国際社会全体の勢力均衡を変えてしまうほどの大きさになっていました。だから貿易摩擦が起きる。あの頃アメリカの貿易赤字の約6割が日本でした。今、中国が米国の貿易赤字の約5割を占めるようになってトランプ大統領があれだけ中国に怒っているわけだから、アメリカが当時の日本を許してくれるはずがないんです。アメリカは「何かがおかしい。競争が公正ではない。日本市場は閉じられている」と言い出して、猛烈な日本バッシングが始まりました。

湾岸戦争PKO

兼原 湾岸では存在感を示すことができなかったから、せめてPKOには協力したかったんです。元々PKOはカナダ、スウェーデンなどが提案した停戦監視が主な役割でしたから、我々からすれば「それすらできないのか」という気持ちでいたんです。

白鳥 PKOはミドルパワーによる国際貢献のあり方ですからね。

兼原 公明党の協力を得て、PKO協力法は何とか通りましたが、やはり国民の意識が変わってきたことが背景にありました。絶対的な平和主義に対する批判が始まって、現実的な平和主義でなければならないという話になってきました。この頃から「一国平和主義」という批判が聞こえてきました。平和を維持するためにも、日米同盟の強化が必要であるという現実的な考え方が出てくる。湾岸戦争のときには、ここまで議論が成熟していなかった。

朝鮮半島危機

兼原 90年代の最大の事件は、北朝鮮の核危機でした。ところが、日本の新聞は宮澤政権崩壊にしか関心が向かず、あまり報道されませんでした。日本の新聞の政治部は政局一筋だったから(笑)。外務省内では、「これは本当に戦争が始まるんじゃないか」と緊張が走っていました。北朝鮮核兵器を作っているのではないかという疑惑が出始めたんです。北東アジアでは、中国が核を持った後、朝鮮半島で南北双方が核兵器の開発に乗り出そうとした。けれども韓国はアメリカに見つかって止めさせられます。

自由と繁栄の弧 インド太平洋構想の前段

兼原 大戦略はシンプルです。21世紀に入ると、日本の国力が上がり、国民も安全保障に関心を持つようになりました。高坂さんの「力・利益・価値」で言えば、価値の部分を掲げようという発想にも理解を示すようになってきた。ODAはもう十分に出していたから、我々も少しは前を向いて胸を張ろうじゃないかと。それで日本も自由と平等、法の支配といった普遍的な価値観を正面から掲げようという話になった。

戦後しばらくの間、アジアは独裁国家ばかりだったんですよね。日本からすれば友達がいなかった。だからアジアの自由主義圏を支援するような外交をやりました。成功体験になったのは東欧への支援でした。東欧諸国には、日本は冷戦後、大規模な支援をしますが、その後、民主化が進んで、皆、NATOやEUに加盟していきました。同じように80年代後半から開発独裁を脱して次々と民主化した韓国、台湾、ASEAN東南アジア諸国連合)の国々と一緒に、自由と民主主義のアジアをつくるべきだと考えたんです。中東はちょっと特殊ですが、東欧、インド、ASEAN、台湾、韓国を含めたユーラシア大陸の外縁の海浜部に沿った一帯に巨大な自由圏をつくりあげようという構想でした。

日本外交は、敗戦国外交ですから、価値観の部分がずっと抜け落ちてきたんです。しかも冷戦中は国内が分断された。しかし、自分自身の旗をきちんと上げないと、国際的には政治力を発揮できません。軍事と経済は所詮外交の道具ですが、政治は意思と信念だから、寄って立つ価値がはっきりしなければ相手にされません。自由や民主主義といった価値観は、信じるに足る価値がある。そのメッセージ力は、パワフルです。

官邸強化、政治主導

兼原 官邸強化は中曽根総理から始まって、橋本龍太郎総理が真剣に構想していました。その意志を継いだのが、石原信雄氏(自治省)、古川貞二郎氏(厚生省)、杉田和博氏(警視庁)などの内務省系の歴代内閣官房副長官で、彼らが内閣を制度的に強化していきました。冷戦後の政治主導強化の流れと歩調を合わせて内閣制度が強化されています。一つの契機になったのが1995年の阪神・淡路大震災でした。このときに初動が遅れたことで、村山政権が厳しく批判されました。それで、危機系が重視されるようになった。特に内閣官房の危機管理監以下のチームが、防災を中心にどんどん強化されていきました。地震・洪水防災対策では、世界最強でしょう。けれども安全保障をやるのであれば、外交と軍事を総合する部署が別途要るのです。それがNSCです。

 

兼原 一連の政治主導、官邸強化の結果、喩えて言えば、各省主権国家体制から内閣ホールディングス体制に変わってきています。次官会議も子会社の社長会議のようになった感がある。それから民主党解党後、野党が弱くなり、安倍政権が長期政権化したことも大きい。今後もNSCが機能するかどうかは、やはり政権が長期に安定するかどうかに掛かってくる。総理は3、4年やらなければ、役人は言うことを聞きませんよ。だって就任した瞬間は前政権の予算をやっているんだし、自分が編成した予算が執行されるのは3年目ですからね。