Hooney Got His Pen

映画の感想と勉強日記

私とは何か

私とは何か 「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

 

「自分探しの旅」は、文字通りに取るとバカげているように感じられるが、じつは、分人 化のメカニズムに対する鋭い直感が働いているのかもしれない。なぜなら、この旅は、分 人主義的に言い換えるなら、新しい環境、新しい旅を通じて、新しい分人を作ることを目 的としているからだ。今の自分の分人のラインナップには何かが欠落している。本当に充 実した分人がない。従って、それらの総体からなる自分の個性に飽き足らない。……

実際、海外生活での分人に意外な生き心地を発見して、現地でコーディネーターなどの 職に就く人もいる。その時に、理想的な構成比率の分人を生きられるようになった(=自分が見つかった)ということは、祝福されるべきことだ。(113ページ)

 

 

人は、なかなか、自分の全部が好きだとは言えない。 しかし、 誰それといる時の自分 (分人)は好きだとは、意外と言えるのではないだろうか? 逆に、別の誰それといる時の 自分は嫌いだとも。そうして、もし、好きな分人が一つでも二つでもあれば、そこを足場に生きていけばいい。

それは、生きた人間でなくてもかまわない。私はボードレールの詩を読んだり、森鷗外 の小説を読んだりしている時の自分は嫌いじゃなかった。人生について、深く考えられた し、美しい言葉に導かれて、自分がより広い世界と繋がっているように感じられた。そこが、自分を肯定するための入口だった。

分人は、他者との相互作用で生じる。ナルシシズムが気持ち悪いのは、他者を一切必要 とせずに、自分に酔っているところである。そうなると、周囲は、まあ、じゃあ、好きに すれば、という気持ちになる。しかし、誰かといる時の分人が好き、という考え方は、必ず一度、他者を経由している。 自分を愛するためには、他者の存在が不可欠だという、その逆説こそが、分人主義の自己肯定の最も重要な点である。(125ページ)

 

その時、大江氏は、こんなふうに答えている。

「ところが、僕のように、これだけ年とってから友人に死なれる場合は、文章を書くこと によって次第次第に、その死んだ友人を自分の中に取り込んでしまうんです。あるいは、 自分がその死んだ友人という他人の中に入り込んでいくんです。 そして、むしろその死者 と自分との関係があいまいなものになってくる。 非常に主観的な関係に、相手を取り込ん でしまう感じ。」(「今後四十年の文学を想像する」 『ディアローグ』)

正直に言うと、私はその時、この「取り込んでしまう」、「入り込んでいく」という表現 が、よくわからなかった。結局それは、生きている人間の勝手な思い込みなんじゃないか と、いつものように考えた。相手が他の人間だったら、そう言っていただろう。しかし、 私は自分が愛読してきた小説の作者が、まさに目の前で語ったその言葉を、しばらく自分 なりに考えてみることにした。(150ページ)