論争の結果は町山氏が自身の誤りを認めるというものだったが、それはけっこう納得がいった。僕はジャズをあまり知らないけれど、ジャズをやってる人には気になるところはあるだろうなと思った。
なぜなら、本作は「セッション」を描いてはいない。主人公アンドリューは、ただひたすら高速ドラムを目指すだけで、他の演奏者とうまく合わせることは全く考えていない。そこに力点が置かれていないし、主人公はそもそも目指していないのだ。
僕は『のだめカンタービレ』が大好きなのだが、あの漫画・ドラマでいいのは、落ちこぼれ音大生たちが力を合わせてオーケストラを作りあげるシーンだ。巨匠の指揮者によって集められた落ちこぼれ達が、切磋琢磨しながらひとつのものを作りあげる。他の映画でいえば、『スウィングガールズ』もそういう話だった。あ、どっちも上野樹里ですね。この時代の上野樹里は本当に素晴らしい。『チルソクの夏』もとてもいいです。
で、本体に戻りますが、『セッション』にはまさに「セッション」をして音楽を作りあげるようなシーンはありません。それは音楽映画には必ずあるものでしょうが、おそらく監督は意図的に外しています。だからこそ、主人公は音楽によって報われることはないし、監督自身もそうだったようです。ただ、この映画を作ることで、自身の経験を映画に落とし込んで昇華させたことで、監督自身が映画に活路を見出したのでしょう。本作はメタ構造を考えてもおもしろい、というかそれを考えざるを得ないです。
ドラマーを目指す主人公と、体罰しまくりの鬼教師。彼らのバトルが、映画のほとんどを占めます。まさにプロレスのような、ボクシングのような。さながら格闘技の特訓を見ているようでした。
それは「音楽」映画ではないかもしれません。言ってしまえば、主人公のアンドリューにとっても、この映画自体も、音楽を「道具」としてしか見ていないといえるかも。音楽、ジャズを題材にしているだけである。
ただ、めちゃくちゃアツい映画でしたよ。ラスト9分は圧巻です。