Hooney Got His Pen

映画の感想と勉強日記

徐英龍『定住外国人問題と地方参政権』

大阪で大空襲に遭う (不幸のみ平等)

 ただいまご紹介にあずかりましたソ・ヨンダル、徐龍達と書きましてソ・ヨンダルと読むのです。 大阪弁でソーヨンダルというふうに覚えてもらったらいいかと思います。 覚えやすい名前ですのでよろしくお願いします。

 浪速区に招かれまして非常になつかしい思いをいたしますのは、実は私、韓国の南の端のプサン(釜山)生まれで、一九四二年(昭和十七年)に十歳のときに大阪へまいりました。そして浪速区の立葉小学校に転校いたしましてそこの卒業でございます。 浪速区民であったわけです。一九四五年(昭和二十年) 空襲のときに焼けまして、それから池田市に行って二十年余り、現在は奈良市民になっておりまして、「学園前」に住んですでに二十五年余り、合わせて五十年余り日本に住んでいる、そういう「定住外国人」でございます。

 今ふっと昔のことをいろいろと思い出すわけでありますが、 立葉小学校では非常になつかしい思い出がたくさんございます。 今日は年配者も大分お見えでございますが、私も年が実は六十歳を過ぎたばかりでございます。一九四四年でしたか集団疎開滋賀県に行きまして、卒業のために四五年三月少し前、二月頃に大阪へ戻りまして、まもなく第一回目の大阪の空襲に遭いました。 どうにか命だけは助かったのですが、家が密集していたものですから、不幸にしてそのとき焼夷弾にやられた学友もたくさんおります。私は桜川四丁目に住んでいました。近くの大正橋を越えたところに空き地がありまして、すぐ左手の空き地に皆が避難をして助かったわけです。 立葉小学校周辺は非常に道が狭かったので、友だちは逃げ遅れたりして死にました。また防空壕とやらを道端に掘って、そういうところに最後まで入っていた人は、家が焼けてバサッと上にかぶさってきて、 中で蒸し焼きになったりして、逃げ場を失って死んだ方がたくさんおります。

 それから、学校の周辺にも防火用貯水池がありましたけれども、余りにも熱いものだからそこへみんなが飛び込んでいるうちに周辺の地熱といいますか、周辺がみんな丸焼けになりましたから、そこで熱湯に蒸されたような形で死んだ人もおります。 今思い出すと、本当にこのような悲惨なことが二度とあってはいけないと思います。 蒸し焼になった人、あるいは黒こげの死骸、そういうものを見ながら歩いた当時が思い出されるわけであります。

(1-3ページ)

旧制中学での進学差別

 一九四五年(昭和二十年)に私が小学校を卒業した年に旧制中学校の試験がございました。 大阪市の三分の二が灰になったときですから、入学試験などというものはございませんが、私は公立の中学に受かるという前提で書類を出したのですけれども、私だけが不合格になりました私立中学校に初めから願書は出しておりませんでしたから、その公立の結果がわかってから急に捜したものですから、これは差別用語になるかもしれませんけれども、俗な意味で申し上げますと、一流も二流も済んで三流しか残っていない。 当時の中学で千里山中学と履正社中学とがありました。公立の発表が済んでから願書を出すところがなくて、その二ヶ所にあわてて出願したのですが、そこもふられまして、行くところがない。これは勉強が原因ではなくてやはり韓朝鮮人(私の新統一用語) 差別、後になって、これがそういう差別かと感じたわけであります。今と違いまして戦前のことで、自慢でいうのではなく、わたしは勉強のできる方でありましたから、当然公立にいける成績の者が、私立の三流もふられるということで、私の父はずいぶん頭にきましてあちらこちらを走り回っているうちに、当時の大阪大倉商業学校、 今の茨木市にある関西大倉高校ですが、この学校の先生がたまたま父が知っていてその話をしたら、それは気の毒だ自分の学校へ寄越しなさいということで、入学試験も全部済んだあとに、いわゆる特別入学で拾ってもらったということです。

(4-5ページ)

徐英龍『定住外国人問題と地方参政権浪速区人権啓発推進協議会、1994年8月発行

黒田龍之助『ロシア語だけの青春』

 そもそもミールでは、週二回の授業を受けるだけでも、かなり大変である。 授業中の緊張もさることながら、予習と復習をしっかりおこなうには、授業のない日も、家で毎日のように勉強しなければならない。かつて非常に熱心な生徒が、二クラス並行して、つまり週に四回もミールで学んだことがあったという。その人は非常に上達し、後にロシア語通訳になったそうだ。

 わたしには、週四回も授業を受けるほどの、余裕も勇気もなかったが、それでも授業以外に、語彙を増やすことだけは、ひとりで試行錯誤していた。ロシア語基礎語彙集をあれこれ買い集めては、自分で単語帳を作り、それを覚えていく。単語がひとつでも増えれば、それだけ表現の幅が増えるではないか。

 すべては、ミールの授業でうまく会話するためだった。

(44ページ)

 

NHKの衛星放送で世界のニュースを紹介する 番組を見ていて、それがロシアのニュースになると、ときどき右下に「通訳: 筆塚真理子」という名前を見かけた。ほほう、マリコ社長、相変わらずNHKで活躍しているんだね。 通訳業から離れて、大学教師になったわたしは、懐かしくも嬉しく思っていた。 だから突然の訃報に接したときは、ことばもなかった。 確か五十二、三歳だったと思う。

 わたしが二十一世紀になって泣いたのは、今のところ、このときだけである。

 お通夜に行く途中、多喜子先生に会った。 「そうね、黒田さんは筆塚さんと仲が良かったですものね」

 そうなんです。しかもただ仲が良いだけじゃなくて、彼女はいろんなことを教えてくれた、お姉さんみたいに大切な人だったんです。

 その頃わたしは、テレビ講座に講師として出演することが、すでに決まっていた。NHK局内でマリコ社長に会えるんじゃないかと、密かに楽しみにしていたのだが、それも叶わぬ夢となった。

 筆塚さんはわたしの人生に突然現れ、途中で忽然と消えてしまった。

(73ページ)

 

 そもそも外国語学習は、教師から生徒への一方的な知識の伝達である。先生は常に正しく偉い。 これがけっこうストレスなのだ。そのストレスを発散するために、生徒は質問を仕かけてくる。

 ところが「標準ロシア語入門』は市販されている教材である。 必要な説明はすべて書いてある。質問なんてありえない。それなのに質問するのは、何か別の理由がある。

 自分を振り返ってみてもそうである。 未熟な時期は、つまらない質問を連発していた。それがなけなしのプライドだったのかもしれないだがあるとき、それが間違っていることを悟る。初級段階で質問は不要。そう悟ったときに外国語が伸びた。 外国語学習では、頭を一時的に空っぽにする必要がある。もちろん、永遠に空っぽでは困るのだが。

 疑問に思うことが悪いわけではない。ただそれは将来に解決するとして、いまは発音練習と暗唱に努めてほしい。すくなくともミールではそうしてほしいのである。

(139-140ページ)

 

 わたしはこのちょっとした事件を通じて、大学は見返りを求める場所であることを学んだ。 見返りとは単位だったり、好成績だったり、延いては卒業だったりするが、とにかく大学生は、そういうものを求めて授業に通うのである。誰もが分かっていることではないか。 知的好奇心などと、綺麗ごとをいってはいけない。大学で教える者は、現状をしっかりと把握する必要がある。

 大学だけではない。世間だって、外国語学習には見返りを求めるのが、ふつうとなっている。その最たるものが資格試験だ。外国語はスポーツのように、級やスコアを競うものになってしまった。資格がなければ、自分の実力が示せない。外国語能力は、人に見せびらかすものらしい。 あるいは留学して、現地に長期にわたって滞在したことを盾にとり、自分の能力を誇示する。

 人はなんらかの見返りを求めて、外国語を学ぶ。

でも。

ミールには見返りなんてなかった。

 大学みたいな単位はない。 多喜子先生に指定されるまま、 クラスに出席する。 発音が悪ければ指摘される。 文法が間違っていれば直される。 期末試験で成績が悪ければ、同じクラスをやり直し、よければ上のクラスに上がり、そこでさらに厳しい授業を受ける。

 そこに何があるというのか。

 お金が儲かるわけではない。仕事が見つかるわけでもない。 資格が得られるわけでもない。そもそも卒業なんて果たしてあるのか。いつまで経っても先があり、最終クラスの研究科は、ほぼエンドレス。 外国語の勉強は、無限に続くのである。

 それが当たり前だと、わたしは信じていた。

 思い返せば、ミールは本当に不思議な空間だった。

 なんであそこまで、熱心になれたのか。授業は厳しくて、途方に暮れたこともあったのに、基本的にはいたって呑気で、いつもルンルン気分で通っていたのだから、世話はない。

 東一夫先生と多喜子先生に認められたかったのか。

 それはある。

 どうして?

 それはお二人のことを、「本物」だと信じていたからである。そしてわたしは「本物」に、限りない憧れをいだいていたのだ。

 ところが大学では、誰もが「本物」を求めているわけではない。出席というポイントを集めて単位を取り、単位というポイントを集めて卒業する。それが大学というシステムだ。 そして大学では、そのシステムに相応しい教育をしなければならない。

 非常勤講師を始めた翌年、わたしは就職した。 国立理系大学の専任講師として、第二外国語のロシア語を教えることになったのである。これから教える理系大学生にとって、ロシア語は単なる選択必修科目にすぎない。わたしはそれにふさわしい教育を目指して、工夫することを考えた。ミールとは違う方法を模索しなければならなくなったのである。

 就職に伴い、わたしは十二年にわたって通い続けた、ミール・ロシア語研究所を去ることにした。この先、わたしは 「本物」のロシア語を習うこともなければ、教えることもない。すくなくとも当時は、そんなふうに考えていた。

 ロシア語が勉強したいだけのヘンな高校生は、二十九歳になっていた。

(163-164ページ)

青来有一『爆心』

「妹はこのあたり一帯が火の海になった時、そこをくぐりぬけて逃げてきたとです」

「火の海?」

「原爆の時のことです。あれは城山の母の実家に、妹と弟と一緒に帰っておりましてね。そこで被爆しました」

「いくつの頃なのですか」

「あれは、まだ七つで、下の妹と弟は四つと三つの年子でした。家が倒壊して、祖父母も、一緒におった妹も弟も下敷きになったようです。そこに火が出てしまい、どうにもできんやったらしい。あれは気丈で、錯乱したお母っさんの手をひいてなんとか逃げてきたとです」

ぼくはなんにも言えはしなかった。爆心地あたりで暮らしていると今でも、時々、そんな話を聞くことはあるが、もう、ずっと前の話であり、キリシタンの弾圧の話と同じで、ぼくには土地の昔話でしかなかったのだ。

「お母っさんは怪我もひどく錯乱しておって、どこをどう逃げてきたのかも、ようわかりませんでしたが、うわ言に娘と息子の名前を呼んでおりましたから、下敷きになってそれを助けようとしておったことはなんとなくわかりました」

「妹さんはどう言っていたのですか? 一緒に逃げてきたのでしょう?」

「妹はなんも言わんとです。叔父と叔母が確かめたんですが、妹はとうとう口をへの字に結んで、なにを見てどうして来たのか、なんも言いませんでした。妹は死ぬまでなんも言わんでしたよ」

青来有一『爆心』文春文庫、2010年、252-253ページ

 

 私の戸籍の父母の氏名欄は真っ白である。父の欄にも、母の欄にもその名は記載されてはいない。私の過去は原子雲の下に消えてしまった。

 被爆直後に私は原子野で拾われた。私を拾った女性は私の養母となったが、当時のことをほとんど覚えてはいなかった。無我夢中で逃げる途中で瓦礫の中で泣いていた私を抱き上げ、荒縄で背中にくくりつけて穴弘法から金比羅山を尾根づたいに夜通し歩いて逃げたという。 

 私はほんとうの名前も生年月日も知らない。私がだれでありどこからきたのか、六十年以上の時が流れて私にはもう調べるすべもない。わかっているのは私は昭和二十年八月九日十一時二分の白い光の中から現れたことだけである。

 私の戸籍上の誕生日はその日になっている。

同、272ページ

 

「あんたも被爆経験を書いてみる気はなかね?」と瀧口さんに誘われたのは、確か昨年の九月だったと思います。 生まれたばかりの乳飲み子で拾われたとですよ、なんも覚えておりませんと言って、私はそれまで説明していた見積書を封におさめました。 矢の平の高台にある瀧口さんの家の小さな庭の片隅には彼岸花が点々と咲き、眼下には港の青い海と造船所のドックがなかばかすんではいましたが、良く見えました。

 「あんたも被爆者でしょうが」

 縁側に座りこみ、お茶をすすっては彼は一語一語をゆっくり話します。

 「手帳は持っておりますが、経験として記憶に残っておるものはなんもありません」

 私のこの眼で被爆の様相を見たのかもしれませんが、私にはなんの記憶もないのだからどうしようもないではありませんか。その当時のことを考えると戸籍の父母の氏名欄の真っ白な空白しか私には思いつかず、かなり執拗な瀧口さんの依頼を私は少しばかり理不尽にも感じはじめていました。

同、281ページ