僕が熱心な阪神ファンになったのは、新庄剛志の存在が大きい。サンテレビをつけると、足が長く細身で、簡単なフライに対して小気味よくジャンプする新庄の姿があった。打率は2割8分そこそこだけど、豪快なスイングでたまにホームランをかっ飛ばす。肩がやたら強く、ランナーは新庄の所に飛ぶと無理して走らない。そんな新庄に釘付けとなった。
それから毎日、サンテレビでプレーボールから試合終了まで見る生活を続けることになった。
小学校低学年の時、漢字が苦手だった。5問中1問しか正解せず、テストで20点を取った。親に見せたくなく、家の近くのゴミ箱に捨てた。
プロ野球が好きになって、プロ野球チップスを買い、選手のプロフィールをまじまじと読むようになった。漢字が得意になった。
新庄剛志が野村監督を慕っていると知ったのは、後になってからだ。新庄は、僕が野球を好きになったその年の暮れに、いきなりメジャーリーグへ行ってしまった。そういう破天荒なイメージだったから、いかにも「のそのそ」としていて、練習中は椅子に座ってばかりだと揶揄されていた野村監督のことを、そこまで慕っているとは思わなかった。
新庄 剛志 on Instagram: “#新庄剛志 #野村克也 宇宙人の名付け親 …”
その後、野村監督の著書や新庄の発言などを見ると、野村監督は新庄を相当かわいがっていたらしい。「かわいいやっちゃな」と。
野村監督は厳しいイメージがあるが選手によって、かなり対応を変えるという。選手の特性を理解していると言うべきか。
新庄にはほとんど怒らず、可能性を引き出そうとした。投手に挑戦させたり、四番を打たせたりした。当時の阪神は、毎年 B クラスの弱小球団。新庄の投手挑戦や四番には、マスコミが殺到した。
足の速い選手を並べたエフワンセブンというものもあった。赤星、藤本、沖原、田中秀太など。今考えると、よくもまあ似たような選手ばかりいたものだと呆れるが。野村監督は機動力を生かした選手たちを競わせていた。
そして有名なのが遠山のワンポイントリリーフだろう。遠山は阪神に入団するも活躍できず、ロッテに移籍した後、阪神に出戻り。その間には打者挑戦などもあった。
そのスリークォーターというのか、横手投げというのか。奇妙な左投げのワンポイントリリーフが、巨人の松井秀喜を抑え込む姿は痛快だった。
「弱者が強者にいかに勝つか」ということを考え抜いた野村らしい起用法だった。松井秀喜を外角のスライダーで三振に取る遠山。これほど痛快な光景は後にも先にもあまりない。
そして葛西投手との、遠山スペシャル。あんなものは誰も考えつかないだろう。
私にとって阪神ファンになった最初の監督が野村監督。当時はうちの家でもあまり評判が良くなかったが。
コントロールが悪いながらも起用し続けた井川。中日からトレードで移籍してきて、その後優勝キャッチャーとなる矢野。一年目にすぐ一番として起用し盗塁王と新人王まで取ってしまった赤星。四番の桧山などなど。
2003年の優勝メンバーの多くは、野村監督時代の教え子だ。もちろん天才今岡のように、野村時代にはあまり厚遇されなかった選手もいる。しかし、2003年に優勝した時、私がまず思ったのが野村監督への感謝だった。そのような阪神ファンは多いのではないだろうか 。
社会人野球シダックスの監督に就任した野村。社会人野球の世界でも実績を残した。当時の映像で僕の好きなものがある。阪神二軍とシダックスが対戦した際、阪神ファンが野村監督に投げかけた言葉だ。「ノムさんあんたのおかげや。あんたのおかげやで」と。
評論家としての名声を確立したのは野村スコープだろう。ただ、2000年代には野村スコープはほとんどなかったのであまり知らない。それでも、1試合が2試合かは見たことがある。予想を続々と的中させるのには驚いた。
また、スポーツニュースでの解説はよく見ていた。毎度勉強になるものだった。
そして、あの野村ノート。今でこそ水曜日のダウンタウンで指摘されたように粗製濫造気味の本が多かったが、昔の著書を読むと本当に秀才なんだなと思わされる。知的で含蓄のある言葉が並ぶ。
勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし。月見草。マー君神の子不思議な子。残した名言は数知れない、
これらの言葉は私も好きだ。
ただ、本当に好きなのは野村評論の姿勢だった。
歯に衣着せぬとはこのことか、と思わされることが多くあった。阪神ファンとして感謝しているのは、もちろん2003年の優勝の礎を築いたことだが。
それ以上に、評論家としての活動で阪神の闇を続々と暴いていたことはもっと評価されるべきだ。
例えば、野村監督が「即戦力の投手を欲しい」と言ってもフロントは聞き入れず、1位で内野手を取ったりとか。そしてその選手は怪我していて使い物にならなかったとか。
FA で選手を獲得することを求めても聞き入れなかったこと。あるいは、「この球団は優勝を目指していない。優勝すれば年俸を上げる必要があるからだ。優勝争いをした末に、2位になれば、観客動員も増える上、年俸もあげなくて済む」とフロントに言われたこと。これらのフロントとのやり取りを、その後の著書で余すことなく披露していた野村監督。
スポーツ紙などは、球団との付き合いがあるからこのようなことはなかなか書けなかったのではないか。野村の野球本には、ジャーナリズム精神が満ちていて、それは野村の野球評論に独特の魅力を与えていた。
これらの野村の言葉を読んで、阪神球団の闇を知った。そのようなファンは数知れないだろう。その後、阪神は野村の指摘のお陰か、選手を積極的に獲得するようにもなったし、ドラフトの戦略なども近年は安定してきた。野村監督の評論のおかげと言えるかは分からないが、野村監督の評論を読んできたファンの目が肥えたのは事実だろう。
阪神ファンがよく思うのは、「万年最下位の、あの暗黒時代に戻りたくない」ということだ。
野村は暗黒時代の監督だった。
しかし、暗黒時代の最後の監督だった。
本人は不名誉に思っていただろうが、その後の評論活動を合わせて考えると、暗黒時代を終わらせた主役といっていいだろう。
今ではヤクルトや楽天の監督として紹介されることが多いが、納得がいかない。
紛れもなく阪神の監督だった。
あの、どうしようもなく弱い苦しい時代に、一緒にもがき苦しんだ監督。暗い時代に、様々な奇策や時には苦し紛れの起用法で楽しませてくれた監督。
阪神の監督を辞めたあと、チームに対しては厳しい言葉をかけ、同時にファンの目を育ててくれた人でもあった。