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映画の感想と勉強日記

【書評】田中ひかる『「毒婦」和歌山カレー事件 20年目の真実』

田中ひかる『「毒婦」和歌山カレー事件 20年目の真実』(ビジネス社、2018年)という本を読みました。以下、少し長いですが書評を書きました。

 

「毒婦」和歌山カレー事件20年目の真実

「毒婦」和歌山カレー事件20年目の真実

 

 


帯には「動機なし、自白なし、物証なし。林眞須美は本当に『毒』を入れたのか?」とある。どういうことか。


そもそも、「林眞須美」とはだれか?


答えは簡単だろう。


今から20年前、1998年7月に和歌山市でおきた毒物混入カレー事件(いわゆる「和歌山毒物カレー事件」)の犯人である(と、されている)。地域の夏祭りでカレーライスに毒物を混入され、67人が急性ヒ素中毒に陥り、そのうち4人が死亡するという残忍な事件だった。眞須美はカレーに毒物を混入させた、まさに文字通りの「毒婦」(「人をだましたりおとしいれたりする無慈悲で性根の悪い女」デジタル大辞泉)として人々に記憶されている。そして、徹底的なメディアスクラム(集団的過熱取材)が行われたことも、人々の記憶に刻印されている理由である。


2002年には和歌山地裁で死刑判決が下され、2009年に最高裁で死刑が確定した。判決理由として、「①カレーに混入されたヒ素と同一の亜ヒ酸が林宅から発見されたこと、②眞須美の頭髪から高濃度の亜ヒ酸が検出され、その付着状況から亜ヒ酸等を取り扱っていたと確認できること、③夏祭り当日、眞須美がカレーにヒ素を混入する機会を有しており、カレーの入った鍋のふたを開けるなどの不審な挙動をしていたことも目撃されていること」、が挙げられている。そして判決文は、これらを総合して、林眞須美が事件の犯人であることは「合理的な疑いを差し挟む余地のない程度に証明されていると認められる」としている。


しかし2009年、判決理由①②に関する科学鑑定に重大な疑義が生まれることになった(田中ひかる「和歌山カレー事件・20年目の真実〜林真須美は本当に毒を入れたのか」http://gendai.ismedia.jp/articles/-/56582 )。京大教授である河合潤がヒ素の鑑定書の分析を行い、ずさんな鑑定が行われたことを突き止めたのだ。


その具体的な内容はなんと、ヤフー知恵袋で河合自身の回答を読むことができる(https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10166953385 )。

河合はこの中で、「最近(2016年9月)も和歌山地裁に意見書を提出したばかりですが,その最後で『私(=河合)の一連の鑑定書・意見書が鑑定を超えて指し示す新たな真実は,不明な動機によって4名を殺害し63名に傷害を負わせた真犯人は,凶器の亜ヒ酸を現在も所持したまま,野放しであるという事実である』と結論しました」とまで言っている。果たして、「合理的な疑いを差し挟む余地」は本当にないのだろうか?


本書では、判決理由③に関しても詳細な検証を行っている(pp. 71~74)。カレーを調理していた眞須美を目撃したという女子高校生の証言はそれぞれ、

(1)眞須美が蓋をはずしてしばらくすると鍋から白い湯気が上がった

(2)服装は白色のシャツに黒っぽいズボン、首から白色のタオルをかけており、頭髪は縛っていなかった

(3)「自宅2階の寝室の窓」(←当初の「自宅一階のリビングの窓」から変更)から目撃した

というものであった。


本書の反論はそれぞれ、

(1)カレーは冷めており湯気が立つわけないし、ヒ素を混入しても白い湯気はでない、(2)眞須美いわく、服装は黒のシャツ・ズボン、黒に黄色のプーさんのロゴが入ったエプロンをしていた、タオルは巻かない、髪はショートカット。一方、次女は白いTシャツを着て、首にタオルをかけており、髪は眞須美より長く、体型も似ている(つまり、目撃者は眞須美と次女を混同した可能性がある)

(3)2階寝室から見えるカレー鍋は、ヒ素が混入されていないほうの鍋(鍋は2種類あり)。鍋のある場所までは15メートルあり、窓には網戸があり、白いレースのカーテンもかかっており、視界は良くない。また、「エゴの木」が視界を塞いでいた可能性も高い。


要するに、目撃証言の(1)~(3)はすべてかなり怪しいということだ。これでもまだ、「合理的な疑いを差し挟む余地」はないのか?


本書で最も衝撃だったのは、第5章「愛憎~夫婦と子どもたちの二十年」である。その内容は、著者自身による記事でも内容の一部が読める(田中ひかる「和歌山カレー事件「死刑囚の子どもたち」が生きた20年」http://gendai.ismedia.jp/articles/-/56653 )。

夫婦の子どもたちが児童養護施設でうけた壮絶ないじめ。本当にやるせない気持ちになった。

「死刑囚の子ども」だという理由だけでいじめられることはそれだけでも許されないが、もし、その死刑判決そのものが疑わしかったら?冤罪だったら?

本書を読むと、その可能性を考えずにはいられない。


最後に、著者自身の「あとがき」を紹介したい。歴史社会学で博士号を取得した著者はもともと、「日本社会の女性犯罪者に対するイメージ、さらには女性観が、判決にどのような影響を及ぼすか」という問題意識から研究を進めており、「現代日本の女性犯罪をテーマにした本を書きたいと考え」た。そして本書を書いた著者の結論は、以下のようなものである。


「今回、一からカレー事件と林眞須美について調べ直し、彼女を有罪とした状況証拠の杜撰さや、裁判の杜撰さにあらためて驚いた。そして、眞須美が日本中から嫌われ、徹底的に叩かれ、刑事や検事たちからも憎まれた最大の理由は、彼女の言動が、”女らしさの規範”から大きく外れていたからだということに思い至った。

 事件発生から二〇年。本書が、あの「魔女狩り」のような狂騒の正体について、多少なりとも解き明かすことができていれば幸いである。」(pp.212~213)


つまりこの本は、「林眞須美」という一人の女性がメディア(新聞、テレビ、週刊誌)、大衆(視聴者・読者)、警察、検察、裁判所等によって、いかにして「毒婦」としてのイメージが作られていったのかを分析しているのである。そして、その過程は様々な誤認、疑惑、思い込みを伴ったのだ。


本書の重要な指摘は、「眞須美が”女らしさの規範”から外れていたために憎悪の対象となった」というものである。それはもちろん、そもそもなぜ「毒婦」という言葉が存在するのかという問題と通じている。なぜそもそも「婦」なのか(ちなみに「毒父」や「毒男」という言葉はネットスラングとして存在するようだが、辞書には登録されていないし、意味も全く異なる)。

 

著者の指摘はいちいち重く、そして実証的である。評者は自ら検証する術を持たないが、それでも「合理的な疑いを挟む余地」は大いにあるだろう、という感想を持った。